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法哲学者碧海純一直系の弟子、井上達夫32 才の若書きである。いまやその研ぎすまされた論理と知性で、大家としての地位を揺るぎないものとしている筆者であるが、その声価を定着させたのは、二十年前のこの作品であったのは記憶に新しい。
こんな古典とも言うべき書物をいまさら書評欄で取り上げてみたいと思ったのは、二
つの理由による。
ひとつはE メールの普及に伴う疑似コミュニケーションの跋扈である。多くの場合「感情のたれ流し」に過ぎず、「些細な気分や思い付いた単語をただ並べるだけ」(1)であるこのツールが、会話と等値される、はなはだしきは置換するものであるかのごとき錯覚が横行している。この事態が、単に知的な怠惰さに起因し、粗雑な議論を生む土壌になるのみならず、さらに大きな問題を包含していることに言及したい、という理由。
第二に、所謂「知的相対主義」が市民社会論周辺の議論に、当然のごとく安易に前提とされる場面が多く見られることである。「それは見解の相違に過ぎない」「私はこう思う。あなたが同意するかどうかは問題ではない」「そういう信念を持って行っているのだから仕方がない」という議論であって、これは相対主義でもなんでもない、ただのエゴイズムに過ぎない、ということを指摘しておきたい、という理由。
従って、これは書評にことよせた筆者の意見とでも言うべき小文であり、そのかぎりでは書評としては邪道の謗りを免れないことはあらかじめお断りしておく。
タイトルが示すように、本書は正義論である。つまり、「等しきものは等しく」扱い、かつ「各人にその権利を帰さんとする不断にして恒常的な意思」である正義がいかに可能か、を問いかけ、その方法を提示する。
井上は、オークショットによって、人間は目的を共有することによってしか結合できない、という「統一体」としての社会を否定し、いかなる目的を追求するかではなく、それをいかに追求するか、という「品行の規範(norms of civil conduct)」を共有する「社交体」としての社会を選択する。そしてそこにおける「実践知」としての会話という形式によって正義は追求しうるとする。
それは「諸個人が異質性を保持しながら結合する基本的な形式」であって、共通了解を前提とするコミュニケーションや言語行動ではない。いうまでもなく「正義」は「善」とは異なるのであって、それはむしろ、おのおのの善の追求を可能ならしめる条件とも言うべきものであり、それが「会話という営為によって可能になる」というところにこの議論の凄みがある。
しかし会話としての正義は、その営みに対する絶えざる内省と検証の過程を前提とする。それを怠って、コミュニケーションにさへなっていないような「些細な」「感情の垂れ流し」に憂き身をやつしていれば、そのツケは、「善」の押し売りや目的共有の強制となってまわってくることは確実である。正義実現の手段が喪われるからだ。
それが厭だからといって、押し付けられた価値観はお断り。なぜなら私は違った風に感じるからだ。あれも、これも、所詮価値は相対的なものでしょう。烏の勝手ですね、という議論もよく耳にする。
井上によれば、相対主義の名に値するのは、「いかなる価値判断も客観的妥当性を持ち得ず、相競合する価値判断のうちのいずれを選ぶかは原理上恣意的な問題であるとする」価値相対主義のみで、時代・文化・民族などの相違を超えて普遍的に存在する価値観や規範意識は存在しない、という経験的相対主義も、人間の価値観は画一的ではなく多様であるべきだ、とする規範的相対主義も、さらに価値判断の妥当性は個人の意志によっては変えることの出来ない条件に依存する、とする非・普遍主義もなんらかの意味で客観主義にコミットしている、という。
だから知的ファッションとしての相対主義などというものは軽々に唱えるべきものではない。まして、自分の意見や自分に対する取り扱いについて、何らかの特別な配慮を求める根拠として「自分が自分であるから」という理由しか挙げられないのは、単なるエゴイスト以外の何者でもない、ということになる。
21 世紀社会デザインの柱の一つである市民社会組織に対しても、井上が「答責性(2)」の見地から鋭い批判を提起したのはよく知られている。透徹した知性は対象の如何を問わず犀利な問題提起をなしうる、ということであろうか。時代の鏡に照らしてこの本を読むとき、新たな感銘を覚える。
■註
(1) 2004.3.29 放送 NHK ニュース10
(2) ある組織の活動がもたらした結果について、政治責任を追及する実効的な手段が存在するか否か、という問題意識。井上「講義の七日間」新・哲学講義7 岩波書店1998 p.69
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