40 

 

わたる事業集団を形成した

93

 

 そして、1924年以来提携し続けていた目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄は1939年に合併し、新
生東京横浜電鉄としてスタートを切った。新生東京横浜電鉄は、関東一の電鉄会社となり、中

国大陸や台湾にも進出した。しかし、海外事業は太平洋戦争の終結とともに連合国側に接収さ

れたため、水の泡となってしまった

94

 

 同社は、1942年に京浜電気鉄道や小田急電鉄を合併して東京急行電鉄として発足した。そし
て、京王電気軌道も

1944年に合併し、鉄軌道総営業キロ320.4kmを誇る「大東急」を形成す

るに至った。太平洋戦争中は、戦局の悪化に伴って戦力増強に資源が結集され、軍需生産は鉄

鋼、石炭や軽金属、船舶と航空機に限定された

95

。その結果、東急は軍事施設や工場への輸送

力増強が要求され、鉄道の新設や複線及び電化工事等を行った。戦争末期には空襲などによっ

て東横線や井の頭線、京浜線、東横百貨店等が大きな損害を受けた。結果として戦時中は国の

重点施策によって鉄軌道業は業績が向上した時期もあったが、兼営部門は総じて営業できるよ

うな状況にはなかった。

 

 

4-3

第二次世界大戦後の成長(

1945

年度~

1974

年度)

 

 終戦後、戦災によって交通運輸業界は多大な被害を受け、私鉄業界全体の被害総額は終戦時

の価額で

4億4,000万円にも上ったと言われている

96

。そして、

GHQからの指導によって1947

年には独占禁止法と過度経済力集中排除法が公布され、東急も再編に踏み切った。先ず、

1948

年に百貨店業を東横興業に譲渡し、京王帝都電鉄や京浜急行電鉄、小田急電鉄の

3社を分離設

立した。この

3社の独立に伴い、鉄軌道事業の営業キロ程は79.31kmにまで縮小され、乗合

自動車事業の営業キロ程は

79.37kmになった。また、五島慶太は1947年に公職追放を受け、

一時東急の経営から離れていたが、

1951年に追放を解除され、再び代表取締役会長として東

急に舞い戻った。

 

五島は復帰してから、

1953年の臨時建設部の設置と、多摩田園都市、渋谷地下街、東横西

館、東急文化会館の建設構想を打ち出した

97

。この時期に東急グループの育成のための映画事

業(東映)の再建を行い、製造業への進出や不動産事業では東急電鉄の事業を一部譲渡する形

で沿線地域に限らず不動産事業を経営出来るように東急不動産を設立した。そして、

1956年

には事業の一部譲渡によって東急観光や東急砂利を新設し、その後も立て続けに会社の設立が

行われた。また、

1955年にはヒルトンホテルズ・インターナショナルと業務提携における仮

契約調印が行われ

98

、積極的にホテル事業も進めていく姿勢を示した。ホテル事業以外には広

告代理業や航空業(

1961年)にも進出した。 

1966年には、「三角錐体論

99

」による事業展開が打ち出され、地域開発業を中心としてどう

部門と観光部門、流通部門の

4部門が有機的に結びつくような経営を試みた。一方、本業の鉄

道事業やバス業においても時代に合わせて改善が行われ、

1972年には鉄道路線の立体化を全

営業キロ程の約

62%を完了させ、他にも自動券売機の導入や新型車両の導入などを行った

100

 

様々な事業への多角化によって、東急は付帯事業を中心に売上高を大きく伸ばし、飛躍的な

成長を遂げた(【図表

4-7】参照)。こうして、東急は今日へと続く事業基盤を完成させた。 

                                                 

93

 東京急行電鉄株式会社社史編纂委員会、1973、前掲書、p.197 

94

 東京急行電鉄株式会社社史編纂委員会、1973、前掲書、p.237 

95

 東京急行電鉄株式会社社史編纂委員会、1973、前掲書、p.257 

96

 東京急行電鉄株式会社社史編纂委員会、1973、前掲書、p.329 

97

 成島忠昭、1979、『東急グループのすべて』、日本実業出版社、p.189 

98

 東京急行電鉄株式会社社史編纂委員会、1973、前掲書、p.420 

99

 東京急行電鉄株式会社社史編纂委員会、1973、前掲書、pp.572-573 

100

 東京急行電鉄株式会社社史編纂委員会、1973、前掲書、pp.575