1章 うっかりミスはなぜ起きる 〜スリップの心理学(抜粋)

 美人ギタリストの夏美さん。郵便局に書留を取りに行ったとき、「印鑑をお願いします」と言われてバッグから取り出し、局員に渡しました。受け取った局員は不思議そうな顔をしてその印章をながめ、なかなか判をつこうとしません。イライラした夏美さんが、「ボケッとしてないで、とっとと押しなさいよ」と心の中で悪態をついたとき、
 「あのう・・・これ、・・・」。
 おずおずと差し出された郵便局員の手にはリップスティックが握られていました。あわててバッグからハンコを出し直す夏美さんの目の端に、隣の窓口の女性局員が声を殺して爆笑する姿があったそうです。
 一方、私のゼミ生の剛史くん。ゼミ仲間とスキーツアーに行った帰り、新宿西口でツアーが解散したあと、同じツアーに参加した可愛い女の子と一緒に帰宅する幸運に恵まれました。たまたま二人だけ同じ西武線の沿線に住んでいたのです。彼女が西武新宿駅で切符を買っているあいだ、剛史くんは後ろで待っていました。「レオカード」というのを持っていたからです。その間、車中でどうやって電話番号を聞き出そうか、次に会う約束を何とか取りつけられないものかとアレコレ作戦を考えていたのは言うまでもありません。
 さて、切符を買った彼女と連れだって自動改札を通ろうとしたら、剛史くんの前で扉が閉まり「ピンポーン!」。
 「えっ? なぜだ!?」
 一瞬ののち、剛史くんは気づきました。レオカードはJR東日本のイオカード(JR西日本はJスルーカード)と違って改札をそのまま通ることはできず、自動券売機に入れて切符を買うときに使うものだったことを。そのとき発車ベルが鳴り、「わたし急ぐからゴメンね」と言いつつ手を振って電車に駆け込む彼女を、剛史くんはボーゼンと見送ったのでした。(注:現在のレオカードは首都圏の私鉄各線の自動改札機を直接通ることができます)
 心理学では夏美さんのようなミスを「アクション・スリップ」(略してスリップ)、剛史くんのミスを「ミステイク」と呼びます。スリップはやろうとした動作は正しかったのに、その動作がちゃんとできなかったもの、ミステイクはやろうとしたことがそもそも間違っていたというものです。
 つまり、動作の計画段階や、そのもっと前の認識、判断の段階での失敗がミステイク、動作の実行段階での失敗がスリップです。


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