まえがき(抜粋)

 私の小学4年生の息子は、私に向かって「ねえ、ママー」とか、妻に向かって「パパー」とか呼びかけることがあります。私と妻を人違いするわけでは、もちろんありません。人違いは「ミステイク」ですが、息子のは単純な言い間違い、すなわち「スリップ」です。ですから、言ったあと、すぐに気づいて、あわてて言い直します。
 ミステイクとは錯覚や勘違いで、行動をする前に、すでに失敗をおかしているために起きるエラー。スリップとは、動作をする、そのときに起きるエラーです。
妻もひどいんです。息子の涼介と、室内で飼っているビーグル犬シナモンをしばしば呼び間違えるんですから。とっさに叱るときが多いですね。子どもに向かって「シナモン!」って怒鳴ってから、苦笑いしながら「じゃない、涼介!」と言い直します。犬に向かって「涼介!」と言うこともあります。
 どちらも、目の前の相手を見れば、たいていすぐ間違いに気づきます。しかし、わが家では、こんな会話もときどきあります。
 妻「きのう森先生から電話がかかってきて・・・ペーラペラペラペーラペラ」
 私「ちょっと待って、いまの担任は小泉先生じゃないの?」
 妻「そうよ、小泉先生よ。」
 私「でも、さっき、森先生って言ってたよ。」
 妻「ほんと?小泉先生って言わなかった?」
 妻は、自分が言い間違えたことに気づいていないのです。先生が目の前にいないから、視覚情報と喋った内容とのミスマッチに気づく手がかりがありません。
所沢の管制官も、同じ様な単純な言い間違いをし、そのことに自分も指導管制官も気づかなかっただけなのではないでしょうか。
 もし、レーダー画面に音声認識装置が付いていて、「907便」と呼びかけたときに907便の表示が点滅するようになっていれば、羽田方向に向かう958便を降下させるつもりなのに、逆向きに飛んでいる907便の表示が点滅し、「あれ、間違えたかな」と気づいたかもしれませんね。
妻や子どもの言い間違いと、航空管制官の言い間違いはどうちがうのでしょう。
 (1)妻や子どもが言い間違えても、たいした問題は起きない
 (2)管制官が言い間違いをすると、大事故が起きる可能性がある
というだけです。
 しかし、管制官やパイロットというような職業の人が仕事中におかすうっかりミス(スリップ)や勘違い(ミステイク)は問題だけど、われわれ一般人のミスは笑い話の種にすればいいかというと、そうではありません。私たちだって、ミスのせいで交通事故にあったり、交通事故を起こしたり、作業中に労働災害を起こしたり、会社に大損害を与える可能性があります。人を傷つけたり、自分の人生が台無しになったりすることだって、ありえます。

 最近、失敗について書かれた本、いわゆる「失敗本」がちょっとしたブームだそうです。しかし、同じ「失敗」にもじつはいろいろな種類があります。
 なぜ橋が落ちたのか、なぜ飛行機が空中分解したのかなど、技術上の失敗を解明するのは工学部の先生におまかせしましょう。なぜユニクロは成功し、そごうは失敗したのかについて知りたい人は、経営学の専門家が書いた本を読んでください。
 この本で取りあげる失敗は、もっと身近な、日常的なものです。電車に傘を忘れたり、ズボンのチャックを閉め忘れたり、間違い電話をかけたり、お茶をこぼしたり、歯医者の予約をすっぽかしたり、駐車違反の切符をきられたり。
 しかし、こういう身近な失敗も、その要因、発生メカニズムは、交通事故や航空機事故、原発事故などを引き起こす人間のミス(ヒューマンエラー)と何ら変わるところがありません。臨界事故も、医療ミスも、入試の採点ミスも、みんなヒューマンエラーがきっかけで起きています。ヒューマンエラーは、人間の認識、行動の失敗ですから、心理学からのアプローチがいちばん有効だと思います。


戻る