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アメリカのフィリピン植民地教育政策とフィリピン社会の対応

− 宗教問題に注目して −



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     1 緒言

     2 アメリカの統治目標と教育政策 : 概観

     3 公立学校での宗教教育の扱い

     4 公立学校へのフィリピン社会の対応

     5 結語



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1 緒言

 フィリピンは,1946年の独立まで4世紀近い植民地支配を経験した。19世紀末までのスペイン統治の後,今世紀前半にはアメリカによる統治が行われた。アメリカは学校を統治の支柱とし,全島で学校の普及を図った。従来のフィリピン教育研究の多くは,この学校普及を「秀れた植民地教育政策の業績」1)として紹介するか,またはアメリカが学校を通じてフィリピン人の価値観や文化嗜好をアメリカ礼讃の方向に操作した点をクローズ・アップしてきた2)。前者がアメリカ統治ならびにその植民地教育を肯定的ないし中立な立場でとらえる一方,後者はアメリカ帝国主義支配の文脈のなかで,植民地教育をフィリピン人の精神的文化的支配の手段として批判的に取り上げた。しかしいずれの研究も,フィリピン人の側の対応が,この時期の学校のあり方や,その導入・普及過程に影響を及ぼしたという視点に欠け,フィリピン人をアメリカが提供した学校教育の一方的な受け手としかみなしてこなかった。このためアメリカ植民地期の学校普及過程においてフィリピン人の側が果たした役割が十分に究明されてきたということはできない。
 これに対し,従来見落とされてきたフィリピン人の役割にまで焦点をあてた先駆的研究に,メイ(Glenn Anthony May)による,アメリカ人とフィリピン人エリートの植民地統治における役割の分析3)がある。メイは,アメリカ人の間の見解の対立と,自身の特権と権益に固執するフィリピン人エリートの抵抗とによって植民地初期(1901-13年)の政策が変動した過程を明らかにした。しかしメイは,フィリピン人のなかでも子弟を名門私立学校や欧米の学校に就学させていた一握りのエリートをもっぱら取り上げ,植民地教育の対象であった大衆が,アメリカの開設した学校をどのように受け止め,その対応が教育政策にどのような影響を及ぼしたかは検討しておらず,植民地教育の展開におけるフィリピン人の側の役割を明らかにする上では不十分といわざるを得ない。そこで本研究では,アメリカが開設した学校に子どもを通わせた大衆に注目することで,アメリカ植民地教育の展開におけるフィリピン人の役割をより包括的にとらえ,フィリピン教育史に新たな視点と知見をもたらすことを試みる。
 アメリカ植民地教育に影響を及ぼした諸要因のなかで,本研究が特に注目するのは宗教問題である。これは宗教問題が植民地初期の学校普及を一定程度左右し,教育政策上の重要争点となったからである。スペイン統治がカトリックによる精神的支配を支柱としたため,その統治が及んだ地域では総ての住民がカトリックに改宗し,熱心な信仰を保持するようになった。この信仰ゆえに,フィリピン人は,カトリックの教えに基づく道徳教育が人間形成の基盤であると考えるようになった。スペイン期の学校数はごく限られたが,そこではこうした教育観に基づき,もっぱらカトリックの宗教教育が行われた。こうした信仰や教育観からは,アメリカが本国にならって導入しようとした世俗的な公民教育は受け容れ難いものであった。こうした宗教的反発から,当初は多くのフィリピン人が新しい学校を受け容れようとしなかった。さらにこの宗教的反発は,大衆の行動に一定の影響力をもつカトリック教会によって助長された。一方アメリカの側も,フィリピン人のカトリック信仰への配慮から,例外的措置として学校でカトリックの教義に基づく宗教教育を容認した。このように宗教問題をめぐる大衆や教会の対応は,学校普及を左右し,アメリカの教育政策に一定の影響を及ぼしたのである4)。メイの研究では,エリートのなかでこうした宗教的反発がなかったこともあり,この問題は限定的にしか言及されなかった。
 以下では,まず2でアメリカの植民地教育政策を概観する。次に3で,公立学校での宗教教育の扱いをめぐるアメリカ人の議論をみる。そこに宗教問題に対するアメリカ人の慎重な姿勢をみることができる。そして4で,大衆ならびにカトリック教会の宗教問題をめぐる対応と,その公立学校普及への影響を,主にアメリカ人教育行政官による報告書をもとに検討する。全島の学校行政の長である総督学官(general superintendent)や,地域区分である支区(division)を監督する督学官(superintendent)の年次報告の文面から,こうした宗教的反発が深刻な問題と認識されていたことが分かる。


2 アメリカの統治目標と教育政策 : 概観

 (1) フィリピンの伝統的価値観とカトリック信仰5)

 まずアメリカの統治政策の対象となったフィリピン社会の特徴をみる。フィリピン人の価値観や行動規範は伝統的な地主と小作の関係に主に由来する。それは小作契約上の経済的関係をこえ私的領域にまでわたる保護=被保護の関係であり,小作が土地を耕作して収穫を地主と分け合うという公式の取り決めの枠をこえた相互扶助を,双方が自主的に行うことが期待される。小作は地主とその家族に服従し,求めに応じて遣いをし,荷を運ぶことなどが期待される。一方,地主は正当な報酬の支払い以上に小作の世話をし助言を行い,必要ならば医療支援や,さらには小作の子どもに教育機会や就職口を提供することが期待される。このように伝統的な行動規範では,総ての人間の間で地位の上下が明白に定まっており,下位の者は上位の者に服従する一方,上位の者は下位の者に恩情主義をもって接することが求められる。他の様々な社会的関係においても,フィリピン人の行動はこの伝統的な行動規範によって規定されてきた。
 この行動規範のもとでは,下位の者は上位の者の地位を脅かす行動をとらない。小作は欲求充足や問題解決を,自身の努力や地位向上,状況の変革によってでなく,地主からの恩情によって実現しようとし,また地主の成功と繁栄によって自身も恩恵を得ることを望むからである。このように伝統的な行動規範は,変革を阻害し,既存の支配=被支配の関係を維持・強化する方向で作用してきた。
 カトリック信仰は,こうした伝統的な行動規範と融合し,その主要な基盤となってきた。教会の教えは人知の及ばない摂理による世界の支配を説き,慈悲深い権威者である神(イエス・キリスト)を庇護者として敬うように教え,その恩賜に感謝する生き方を信徒に求めてきた。こうした教えは,「人生は自分より高位の権威者の意思で決まる」という運命論的な考えを植えつけ,知恵と努力によって状況を変革しようとする自助努力の態度形成を阻んできた。幸運や災難を受け容れるときフィリピン人がしばしば口にする「それは神の意思である(Talaga ng Diyos)」という表現に,こうした運命論的な考えへのカトリック信仰の影響が端的に示される。このようにカトリック信仰は,権威に服従し支配者の温情に依存する伝統的姿勢を強化し,既存の社会秩序を維持する方向で作用してきた。このことを念頭におくことは,後述する宗教問題でのアメリカの対応がもつ意味を理解するうえで特に重要である。

 (2) アメリカの目標:大衆教育によるフィリピン社会の改造

 対西講和(1898年)によりフィリピンの領有権を譲り受けたアメリカの目標は,自国をモデルに,フィリピンを独立国にふさわしい近代的な国家に改造したうえで,アメリカの後見のもとに独立を付与することにあった。これは将来的な独立を前提とした点で,植民地を恒久的に保持しようとしたスペインや,他の西欧列強の植民地政策と根本的に異なった。アメリカに固有なこの植民地政策は,当時アメリカ人が共通に抱いていた「自身と,自国と,自分たちの生き方の優越性に対するナイーブで有無をいわせぬ信念」と「この自分たちの生き方を残りの世界と共有しなければならないという使命感」6)に基づいていたという。
 このためアメリカは,独立に向けフィリピン人に「自治の訓練」を施すべく,早くからフィリピン人に立法・行政への参加の機会を提供した。全島で軍政から民政への移行が終わった1902年からわずか5年後の1907年には,選挙をへてフィリピン議会が開設されており,アメリカ側に拒否権を残しつつも,フィリピン人はアメリカと立法権を共有するようになった。またアメリカが特に重視した教育の領域を除き,行政の要職へのフィリピン人の登用も進められた。35年には,10年後の独立を前提とした自治政府が発足し,フィリピン人は外交と通過の分野を除き,独立後と同等の自治権を認められた。このときから,総督にかわりフィリピン人大統領が政府の長となり,実質的にフィリピン人の手による国家運営が始まった。そして日本占領(1942-45)による中断の後,46年に独立が付与された。
 こうしたアメリカのフィリピン統治において特に重要な課題となったのが人々の意識の近代化であった。フィリピンに限らず発展途上国にアメリカのように民主主義的な近代国家を建設するには,普通選挙制や議会といった社会制度の導入だけでは不十分で,人々にそうした制度に適合した近代的な態度を身につけさせる必要がある。すなわち国家レベルの政治機構や社会的争点への知識と関心,それへの積極的参加の姿勢および国家の一員としての自覚を,広く人々に浸透させる必要があるのである7)。そして他の発展途上国の場合と同様,先にみたフィリピン人の伝統的価値観は,こうした態度と矛盾する部分が少なくなかった。このためフィリピンに近代国家を建設しようとしたアメリカの努力においては,伝統的価値観を排し,こうした近代的な態度を浸透させることが,重要かつ困難な課題であった。
 このように人々に広く共通な態度を身につけさせるうえで,教育に期待される役割は小さくない。フィリピンを統治したアメリカも,自国での国家建設の経験から大衆教育の重要性を認識しており,これをフィリピン人の意識改造の主要手段と位置づけた。このためアメリカは占領直後から全島で公立小学校の開設を進め,多数のフィリピン人に就学の機会をもたらした。これは他の西欧列強の植民地においてエリート教育が重視され,高等教育が優先的に整備されたのと対照的であった。小学校は無償とされ,教科書も初級課程 (第1〜4学年)では無料で貸与された。さらにアメリカは,本国の教員のなかから有志を募り,全島の学校に派遣した。
 アメリカはこの学校を通じ,伝統的な支配=被支配の構造を解体しようとした。地主の温情に依存する伝統的な態度は,生活向上や問題解決を自治への参加を通じて実現しようとする近代的態度と矛盾し,その形成を阻害すると考えられたからである。アメリカ人教育局長は次のように記している。

・・・・人々は,貴族階級の無軌道な統率と圧政に,生まれつき逆らうことなく身を任せている。スペイン人はこれを「ボス支配」と呼んだ。本諸島の政府はあらゆる手段と政策をもって,これを打破しなければならない。上記の必然的帰結として,我々の公立学校制度は大衆のためのものとなるべきである。8)

アメリカが公立学校を通じ新たに育成を目指したフィリピン人像は,知識と独立心をもつ自作農であった。上の教育局長は次のようにも記している。

・・・・自分の土地を保有しているフィリピン人は常に勤勉で,諸島の産業に広範に貢献している。・・・・この自作農を念頭におき,この階層を大幅に増加させようとする我々の努力の成果を信頼して,初等教育の課程を編成しなければならない。彼が小さな家と土地を持ち,英語を習得し,読み書きの能力を得て,計算と商売に関わる事柄を理解すれば・・・・それは彼の独立性を高めて彼をより満足させ,その生活水準と快適さと願望とを高めることで,彼をより良い生産者・消費者とするだろう。9)

ここに描かれているような,自身の知識と努力とによって幸福を追求する人間像は,個人主義と合理性を尊重するアメリカ人の考えに由来するとみることができる。それは,権威への服従を個人の願望より優先するフィリピン人の伝統的態度と明白に対立した。
 こうした意識変革を実現すべく,自立,努力,勤勉,正直などを主題とした,アメリカの学校で教えられていたものと同じ挿話がフィリピンの教科書に挿入された。公民の授業では,入植による土地取得の方法が紹介され,また生徒が市民の権利と義務や,議会制の諸原則,市政や州政について話し合うクラブが組織された。算術の練習問題では,収穫を総て利益とする自作農と借金の返済に追われる小作農が比較された。10)


3 公立学校での宗教教育の扱い11)

 公立学校へのフィリピン社会の対応をみる前に,この学校でカトリックの宗教教育が認められたことを確認しておく。これはフィリピン人のカトリック信仰への配慮として認められた。公立学校の主要なあり方を規定する法律は,5人のアメリカ人からなる立法機関,フィリピン委員会によって1901年に制定された。このとき,新たに開設する学校で,スペイン期に行われていたようなカトリックの教義に基づく宗教教育を認めるか否かも議論された。アメリカ人のなかでは,本国で宗教的道徳教育にかわり,知識の普及に基礎をおく世俗的な公民教育を確立してきた経験をふまえ,自国をモデルとしたフィリピン社会改造という統治目的のためには宗教教育を一切禁止すべきであるという声が小さくなかった。
 これに対し一部のアメリカ人は,宗教教育を認めた方がよいと主張した。宗教教育を排した学校は敬虔な信仰をもつフィリピン人の反発を招くおそれがある一方,宗教教育を認めた学校の方がフィリピン人には馴染みやすく,より順調な普及が期待されるので,こちらの方が統治目的の実現に貢献するというのが,その根拠であった。フィリピン委員会の長であったタフト(William H.Taft)の尽力で,宗教教育を認める案が採択された。
 ただし宗教教育を認めたとはいえ,アメリカ人の宗教教育に対する評価は否定的であった。タフトも道徳教育の役割は,宗教教育でなく公民教育が担うべきであると考えていた。またこの宗教教育によって,権威に服従し支配者の恩情に依存する大衆の姿勢が固定化され,自主独立の近代的市民を育成するという植民地教育の目的が阻害されるおそれがあることも認めていた。しかしタフトらは,一定の制約を課すことで,いわば技巧によって,植民地教育の目的に支障を来さないように宗教教育を導入し得ると考えた。アメリカ人は宗教教育を肯定的に評価したわけでなく,フィリピン社会への宗教的配慮ゆえの例外的措置として宗教教育を容認したにすぎなかった。
 こうした否定的な考えから,アメリカ人は宗教教育に厳しい制約を課した。宗教教育は選択制とされ,両親に事前の手続きが義務づけられた。学校の教員が宗教を教えることは禁止され,教会などがそのための人員を派遣することとされた。このためカトリックなど人員を派遣する宗派以外の生徒や,カトリックであっても親が希望しない生徒は宗教教育を受けられなかった。時間数は毎週3回30分以内とされた。しかしこのように制約を課したとはいえ,統治政策の障害となるおそれのある宗教教育の制度をあえて設けたことに,宗教の問題に対してアメリカがいかに慎重であったかが窺われる。


4 公立学校へのフィリピン社会の対応

 次にフィリピン社会の側に焦点をあて,アメリカが開設した学校に対する対応を,学校普及への影響に注目しながら検討する。1)では,カトリック教会が新しい公立学校に反発し,1910年代にかけてその普及阻止を試みたことを取り上げる。この期間には,教会は公立学校に宗教を教える人員を派遣しなかった。2)では,こうして宗教教育が行われなかったことが,大衆の公立学校受け容れの障害となったことをみる。3)では教会の方針転換を取り上げる。20年代後半から30年代前半に,教会は宗教教育の制度を利用するようになり,公立学校への敵対姿勢は解消した。

 (1) カトリック教会の反発 (1901〜10年代 )

 スペイン期以来,教会の教えに従って生きる信徒の育成を教育の目的と考え,その担い手を自負してきたカトリック教会は,世俗政府が開設・運営し,宗教教育にかわり公民教育を基盤とした新しい公立学校に反発した。またプロテスタントのアメリカ人教員の存在も,反発の一因となった。先述のように,アメリカは本国の教員から有志を募って来島させており,1907年度まで教員の1割以上をアメリカ人が占めた。(表1参照)このアメリカ人教員の大多数はプロテスタントであった。1903年にはアメリカ人教員の92.3%がプロテスタントであった12)。カトリック教会にとり,信徒子弟がプロテスタントの教員から授業を受けるのは望ましいことでなかった。1人の修道士は次のように記した。

 政府の学校ではアメリカ人教員の大部分はカトリックでない。・・・・彼らの職務能力が集める敬意は,必ずや子どもの宗教心に響くことになる。そして善意ではあれ,歴史の授業では(例えば「宗教改革」などの)宗教問題に言及せざるを得ず,それらはプロテスタントの理解に沿って説明される。13)

宗教的に中立でないアメリカ人教員の存在が,こうした不満に拍車をかけた。カトリック教会はこの時期,公立学校でカトリック批判や,さらにはプロテスタントの布教が行われていると考えていた。1人の司教は次のように述懐している。

 合衆国から多数の教員が来たが,その大部分はプロテスタントで,多くの牧師,宣教師とYMCA職員が含まれ,この機会を独特で狡猾な方法で改宗のために利用しようとしている。・・・・この甘言と温情によって多くの若者がプロテスタントに魅かれた。14)

このように宗教的に中立でないアメリカ人教員の人数規模は明らかでないが,少なくともカトリックの側は,多くの公立学校でプロテスタントの布教が行われていて,信徒子弟が公立学校に「カトリックとして入学し,プロテスタントとして卒業する」15)と考えていた。こうした理由から,教会は公立学校をカトリック「信仰への最大の脅威であり,他の要素総てをあわせた以上の害をなす」16)ものとみなした。
 こうして公立学校を敵視するようになった教会は,その普及阻止を試みた。その方策は2通りあった。1つは反公立学校キャンペーンで,教会は信徒に,子どもを公立学校へ通わせないように呼びかけた。もう1つは独自の私立学校を開設して公立学校に対抗することであった。2つの方策を順にみる。

<公立学校の普及を阻む方策 1 : 反公立学校キャンペーン>
 カトリック教会は,子どもを公立学校に通わせないようにと,信徒である親に呼びかけた。各地の督学官の報告がこれに言及している。

・・・・教会は公立学校に強硬に反対して影響力を及ぼしている。・・・・これほど強い反対は,私の経験ではみたことがなかった。・・・・公立学校に対し積極的で攻撃的なキャンペーンが行われた。・・・・[公立− 引用者]学校の出席が殆どなくなったのは驚くことではない。
・・・・立ち向かうべき唯一の障害はイエズス会の司祭たちである。彼らはいくつかの町で政府の学校に子どもを通わせないように両親を熱心に説得しようとした。・・・・イエズス会士は公立学校に子どもを通わせないために,無料の本を与えたばかりか,子ども1人ひとりに10セントのほうびを与えたという。
・・・・当地で我々は30年以上在住の老イエズス会士と競わねばならない。彼は当地の住民と状況について広い知識を有している。人並み以上に博識で高潔なこの司祭は,学校に公然と反対し,その当地での開校を他の地区よりも困難なものにした。・・・・この地元司祭の影響により,人々が[学校に− 引用者]熱心であるということは,まだできない。17)

この報告にあるように,一部の地域では,教会のキャンペーンが公立学校普及の障害となった。このことに,当時のフィリピン社会における教会の影響力の大きさが示される。

<公立学校の普及を阻む方策 2 : 私立学校の開設>
 カトリック教会はまた,公立学校に対抗して独自の学校を開き,そこに信徒子弟を通わせることで,公立学校の普及を阻止しようとした。督学官たちがその様子を報告している。

 我々のところのイエズス会士は教育活動を自分たちの支配下におくことに熱心である。・・・・彼らは子どもを教会学校のみに通わせることを義務として教区民に求め,公立学校の成功を不面目と感じるようである。アメリカ人教員を町に派遣したいくつかのケースでは,続いてカトリック学校が開校し,アメリカ人教員を引き揚げるとすぐにその教会学校は閉校した。これらの有能な者たちが・・・・我々が行うよりも優れた教育機会を提供することで我々の生徒を奪おうとするのなら,喜ぶべきである。しかし彼らはそうしているのでない。18)

この方策によって公立学校普及に支障を来したことも,各地の督学官が報告している。1人の督学官は,教会による反公立学校キャンペーンと学校開設によって公立学校への就学者が減少していることが「フィリピン大衆を啓蒙する政府の努力の障害となるだけでなく,その目的を挫折させかねない」19)という危惧を表明した。公立学校の出席が減少した理由として,コレラと天然痘に加え「教会の反対と地元の司祭が指導したカトリック学校の開校」20)を挙げた督学官もいた。また「有能で慈善的なイエズス会が運営する教区立学校がキリスト教徒を魅きつけ捉えている」「キリスト教徒の住民は,イエズス会士が監督する教区立学校に専ら執着している」21)という報告もあった。
 統計資料からも,カトリック教会が多数の学校を開いたことが確認できる。1903年には小学校の生徒全体の7.0%にあたる26,478人が宗教系私立学校に通っており,18年にも13.5%にあたる112,763人が私立学校に通っていたという22)。ただしこれらの数字は教会の活動の実態を正確に示すものではない。教会が開いた教育機関のなかには当局から小学校やハイスクールとみなされなかったものも含まれた。特に18年の調査では,私立小学校と認定されなかったものが除外されており,こうした「学校」まで含めると,カトリック系「学校」に通っていた子どもの人数は,上の数字より多くなる。また10年にこの認定が開始されたことはこれらの「学校」に不利に作用したことから,それ以前の方がカトリック系 「学校」の生徒数は多かったと考えられる。教会が開いた「学校」は,公立学校に対抗して一定数の生徒を集めたのである。
 ただしこれらの「学校」は財政基盤に乏しく,施設,人員,教育内容などの面で公立学校に劣っていた。アメリカ人教育局長は次のように記している。

[教会が開設した− 引用者]これらの小学校は通常,地域の母語で行われ,主に小さな子どもに初歩の宗教教育を施し,初聖体23)の準備をさせることを目的としている。これらの学校はしばしば教区の「主任司祭」の指導の下にあり,司祭館か個人の家で開かれる。教員は,時には男性もいるが主に女性で,スペイン期に公立学校の教員でありながら,現政府のもとで引き続き教えるために必要な程度に進歩しなかった者である。・・・・これらの学校は適切に運営されているとはいえない。秩序は乏しい。教員は子どもにわずかしか注意を払わず,家事などに専念している。24)

 このようにカトリック系「学校」は,施設・人員面での不備や,社会的上昇に必須の英語教育を行わないことなど,公立学校に対抗して生徒を集めるうえで不利な要因が少なくなかった。こうした「学校」が生徒を集めることができたのは,「大衆の宗教教育への希望ゆえ」25)であったと分析されている。このように,殆ど総ての面で公立学校に劣るカトリック系「学校」が,宗教教育ゆえに多数の生徒を集めたことに,大衆の宗教教育に対する希望の大きさが示されている。
 以上みてきたように,カトリック教会は公立学校を受け容れず,その普及阻止を試み,一部の地域で,実際に公立学校の普及を遅らせた。タフトらは宗教教育制度の創設によって,こうした宗教的反発を回避できると期待していた。しかしこの時期は,タフトの期待したような成果があがることはなかった。

 (2) 大衆の反発と受容 ( 1901〜20年代 )

<宗教教育が行われないことへの不満>
 公立学校を敵視したカトリック教会は,そこへ宗教教育のための人員を派遣しなかった。このため公立学校開設の当初,宗教教育の制度は殆ど利用されなかった。1905年度の教育局長の報告には「公立学校の生徒を教える機会が司祭によっていくらか利用されており,ある所では申し分なく手配されている。しかしこれは一般には利用されていない」26)と記されている。公立学校開設の当初,宗教教育の制度は殆ど利用されなかった。
 信仰の厚いフィリピン大衆は宗教教育を道徳性涵養に必須と考えていたため,これが行われないことに不満を抱いた。何人かの督学官がこれに言及している。

・・・・人々の学校に対する態度は申し分ない。彼らは学校に完全に満足しているが,そこには1つの例外がある− すなわち,彼らは宗教教育を望んでいるのである。この要望は,主にこの問題に関する旧来の習慣に由来している。
・・・・[公立学校が− 引用者]人々の広範な精神的支持に欠ける・・・・理由は,子どもが公立学校で宗教教育と教会の公教要理27)を受けられないことである。彼らの目には,それが我々の教育制度の致命的な欠陥と映っている。他の点では,教育制度はこれに接するフィリピン人から好まれている。28)

 こうした不満は公立学校に対する不信感に結びつき,子どもを通わせることを躊躇した親が少なくなかった。アメリカ人の公教育長官は,1902年9〜12月に生徒の出席が大幅に減少した原因の一つが「子どもの信仰を損なわせるための狡猾な手段に学校が利用されているという疑惑」29)であったと分析している。こうした親のなかには,子どもを公立学校に通わせるかわりに家庭や教会などで宗教教育を受けさせた者もいた。「今では子どもに公教要理を施す負担を各家庭が負っている。このため子どものなかでも若い者,特に女性は,要理教育のため公立学校に来させられないことがある」「子どもは教会の公教要理を習得するまで公立学校に出席すべきでないという強固な意識が両親のなかにある。一般に公教要理を知らない子どもは[公立学校に− 引用者]出席しない」30)などと報告された。
 何人かの督学官は,他の正科科目と同様に常に宗教教育が行われるように制度を変更することを提案した。1903年3月のマニラでの会議では次のような発言があった。

 公立学校で毎日半時間,宗教が教えられるなら,人々はより満足するであろう。これが公立学校に対する主要な反対理由である。実際のところ,これが耳にする殆ど唯一のものである。31)

各地からの報告のなかでも,「原住民の教員が毎日半時間,英語で宗教を教えることを認めるように学校法を修正すべきである」「公立学校と,広範な人々との結びつきをこれ[正科の宗教教育− 引用者]以上に強めることはないと確信している」32)と進言された。一連の提案から,学校現場のアメリカ人が問題を深刻に受け止めていたことが窺われる。タフトらは,宗教教育を排した学校はフィリピン人から受け容れられず,その普及に支障を来すおそれがあると考えていた。大衆が示した不満は,この危惧が現実化したものといえよう。

<新たな就学機会の歓迎>
 宗教教育が行われないことに不満を抱きつつも,多くの親は子どもを公立学校に通わせた。公立学校の就学者はほぼ順調に増加した。(表1参照) これは大衆のなかで,就学機会が得られたことへの肯定的評価が,そこで宗教教育が行われないことへの否定的評価を上回ったためと考えられる。フィリピン人歴史学者は次のように分析した。

 スペイン人による教化には示さなかった熱狂をフィリピン人が示したのは,公立学校の世俗的な性格ゆえであると考えるのは大きな誤りであろう。このような好意的な歓迎は無償の学校ゆえであり,スペイン期には市街地や大きな集落のみが享受していたものが彼らの地元で開設されたゆえであるという方が,おそらく真実に近い。33)

この歴史学者は推測の根拠として,スペイン期にも就学機会があった富裕層よりも,機会のなかった貧困層の方が公立学校をより歓迎し,同様に都市よりも農村の住民の方がより歓迎したことを指摘した。例えばアメリカ人将校の1人は次のように記している。

 一般に,貧しく無学な階層が,最も公立学校に魅かれ続けた− 彼らはマニラに子どもを送る費用をまかなえないため,将来にわたり子どもを教育することが望めない者であった。34)

また督学官たちも「マニラの人々の態度は・・・・地方の多くの町で総ての階層の人々に広まった熱狂と対照的で,注目される。・・・・[マニラの− 引用者]人々は,アメリカの教育制度の急進的な変革をゆっくりとしか受け容れなかった」「集落の人々は一般に,市街地の人々よりも教育を望む」35)と記している。
 このように,公立学校が急速に普及したのは,大衆の内で,初めての就学機会への歓迎が,宗教教育が受けられないことへの反発を上回ったためと考えられる。このためフィリピン人のなかでも公立学校への対応は一様でなく,スペイン期にも就学機会のあった富裕層や都市の住民は,農村の貧困層ほどには公立学校の開設を歓迎しなかった。しかしフィリピン人の大部分は後者が占めるため,大勢としては,公立学校はフィリピン社会から歓迎された。こうして1で記したように「植民地教育政策の秀れた業績」といわれる急速な公立学校の普及が達成された。

 (3) カトリック教会による受容 ( 1920年代以降 )

 公立学校の普及が進展したことは,1)でみたようなカトリック教会の活動が不成功に終わったことを意味する。教会の抵抗は,一部の地域で公立学校の普及を遅らせたが,その影響は限定的なものにとどまり,全島でみると公立学校の普及を阻止するには至らなかった。その後,教会は方針を転換し,学校での宗教教育の制度を全島で組織的に利用するようになった。このことは,教会が公立学校の存在を受け容れるようになったことを意味する。最後にこの方針転換をみる。

<受容の背景 : 公立学校の既成事実化>
 まず背景として,大衆の公立学校への就学が定着していことを確認しておく。公立学校に通う生徒数は当初から一貫して増加を続けたが,特にフィリピン議会が教育予算を新たに設けた1917年度からの5年間には70万人弱から110万人強にまで急増した。(表1参照)18年の調査時にも,公立学校に通う者は小学校就学者全体の86.6%を占めた36)ことから,その後の急増により,公立学校による小学校教育の独占は決定的になった。
 一方カトリック教会が全島で開設した「学校」は,一時的には興隆したが,最終的には公立学校に対抗し得なかった。1人の督学官は「優れた公立学校の存在は,常にその優越性によって私立学校を駆逐する」ため「私立学校とその出席率が着実に減少している」37)と記している。1910年代に入ると,督学官や教育局長の報告が私立学校の問題に言及することはなくなった。その後も独自の「学校」開設が教会によって何回か奨励されたが,「資金をかき集めて建てた当座しのぎの教会系学校は一般大衆の蔑視の対象となった」38)だけであった。こうして公立学校の普及を阻止しようとした教会の試みは不成功に終わった。

<アイルランド人大司教のイニシアチブによる宗教教育制度の利用>39)
 カトリック教会が宗教教育制度を積極的に利用するようになったのは,オドハティー・マニラ大司教(Michael O'Doherty) の尽力によるところが大きい。オドハティーは公立学校を敵視していた他のアメリカ人やフィリピン人の聖職者と異なり,そこでの宗教教育の制度を利用することに抵抗感がなかった。これは彼が出身地のアイルランドで同様な制度に馴染んでいたためである。1912年に来島し,16年にマニラ大司教に着座したオドハティーは,早くからこの制度に着目し,その利用を考えていた。
 オドハティーがこの考えを直ちに実行しなかったのは,教会内で公立学校への反発が強く,その容認につながる宗教教育制度の利用に抵抗があったためである。後にオドハティーは次のように述懐している。

 1923年に・・・・私は公立学校で子どもに宗教を教える計画を公表した。ところが驚いたことに,私の提案は教会内からの多くの反対に直面した。・・・・私は説明を求め,反対意見が我々聖職者集団のなかに,より広範に存在することを知った。このため私は問題を当面棚上げした。40)

オドハティーは,まずこうした周囲の聖職者を説得しなければならなかった。このオドハティーの努力の成果をその後の教会文書にみることができる。1925年のマニラでのカトリック会議(Catholic Conference) の教育部会が採択した決議には次の文面が含まれた。

 総てのカトリック信徒は政府の学校における宗教教育に関する法律の規定を利用すべきである。41)

1929年にマニラで開催された第1回全国聖体大会(National Eucharistic Congress) でも,部会の決議項目の1つは次のようであった。

 どこであっても若い世代の宗教的養成が教区司祭の第1の関心事でなければならない。法律で許可された公立学校における宗教教育が,司祭によって常に利用されねばならない。42)

こうした文面が採択された一方で,それまでのように,カトリック系「学校」の開設が決議のなかで謳われることはなかった。
 その後オドハティーは実際に宗教教育制度の組織的な利用に着手した。まずマニラとセブの一部の小教区で公立学校への教員の派遣を実験的に試みた後,1933年5月に,マニラ大司教区の司祭全員に対し,各小教区内の公立学校に宗教教育を行う教員を派遣するよう命じた。さらにオドハティーは,消極的な国内の司教たちを説得するため,まず教皇庁を味方につける方策をとり,年末にローマを訪れた際に宗教教育制度を利用する計画への支持を獲得した。そしてこの教皇庁からの支持を背景に,翌34年には司教全員を計画に同調させることに成功した。
 こうしてカトリック教会は全島で公立学校へ教員を派遣するようになった。表2にみられるように,宗教教育のための手続きを行った生徒数と,その就学者全体に占める割合は,1932年度から2年間で6倍以上増加した。その内の99%以上にあたる184,720人がカトリックの生徒であり,この増加が教会の新たな方針によるものであることが分かる。
 こうして宗教教育制度を利用するようになった結果,ようやくカトリック教会は,公立学校に信徒子弟が通うことを認めるようになった。これ以降は1)でみたような活動は行われることはなくなった。こうして公立学校普及に対する最大の反対運動が終結した。公立学校開設当初,タフトらアメリカ人は,宗教教育の制度を設けることよって公立学校に対する宗教的反発が抑制されることを期待した。教会の方針転換によって,宗教教育制度はようやくこの期待通りの機能を果たすようになった。
 程なく1935年には自治政府が発足し,前述のように,実質的にフィリピン人の手による国家運営が始まった。教育行政職も,アメリカ人数人が要職に残りはしたが公教育長官はフィリピン人化し,アメリカの主導で教育政策が決定される時期は終わった。


V 結語

 最後に本研究の成果を確認しておきたい。第1に,公立学校での宗教教育の扱いがアメリカ植民地教育政策における重要争点であったことを明らかにした。この問題をめぐっては,公立学校開設時からアメリカ人の間で議論があり,一定の制約を課したうえで選択制の宗教教育を認めることで結着した。その後も公立学校に対するフィリピン社会からの宗教的反発を背景に,選択制でなく正科と同等の宗教教育を導入する提案がアメリカ人教育行政官によってたびたびなされた。これらのことは,宗教教育の問題が,従来考えられてきたよりも遙かに重要な争点であったことを示している。第2に,公立学校の普及過程におけるカトリック教会の役割を明らかにした。カトリックの教えに従って生きる信徒の育成を教育の目的と考え,その担い手を自負してきた教会は,宗教教育にかわり公民教育を基盤とし,多数のプロテスタントの教員が教える新しい公立学校に反発し,その普及を阻止する活動を展開した。こうして教会は,公立学校普及に対する主要な反対勢力となった。第3に,公立学校への大衆の対応を明らかにした。敬虔なカトリック信徒である大衆は,宗教教育を道徳性涵養に必須と考え,子どもがそれを受けることを望んでいた。このため学校で宗教教育が行われないことに不満を抱き,子どもを通わせることを躊躇した親が少なくなかった。この結果,今世紀初めの数年間にわたり,一部の地域で公立学校の普及が遅れた。従来の研究では,全体としては公立学校の拡大が順調で最終的に広範な普及が達成されたことから,公立学校が概ね好意的に受け容れられた点のみが強調され,こうした大衆の不満や反発が注目されることはなかった。
 ただしカトリック教会と大衆が,公立学校やそこでの宗教教育の扱いに関してどのような考えを抱いていたかを直接示す資料は限られた。特に大衆の宗教教育への希望は,主にアメリカ人教育行政官らによる観察などを通じ,間接的に窺うことができたにすぎない。また地域的,時間的にこうした大衆の希望にある程度の偏りがあった可能性は否定できず,そうしたことを考慮すると,本研究の検討が十分であったということはできない。しかし大衆の宗教教育への希望およびその公立学校普及への影響に注目したことは,フィリピン教育史研究に新たな視点を付け加えたということができる。

[付記] 本研究は学位申請論文 「 フィリピンにおける宗教教育制度の成立と展開に関する研究 」 ( 1997年2月東京大学より学位授与 ) の第2章に基づいている。また庭野平和財団より1994年度研究助成を受けた。




表1 公立学校の校数, 出身地別教員数および生徒数 ( 1900〜24年 )

----|小学 |ハイスク| アメリカ人 | フィリピン人 |--------|対学齢人
年度|校数 |ール数|教員数|(%)|教員数|(%)|生 徒 数 |口比 (%)
−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1900|*,***|***|0926|**.*|**,***|**.*|*,***,***|**
1901|*,***|***|0928|**.*|**,***|**.*|*,***,***|**
1902|*,***|***|0691|21.7|02,496|78.3|*,***,***|**
1903|2,250|035|0787|17.0|03,854|83.0|0,227,600|14
1904|2,829|035|0855|17.5|04,036|82.5|0,311,843|15
1905|3,227|036|0831|15.0|04,719|85.0|0,375,554|18
1906|3,651|036|0746|10.8|06,141|89.2|0,335,106|22
1907|3,894|038|0800|10.5|06,804|89.5|0,359,738|22
1908|4,387|037|0825|09.4|07,949|90.6|0,437,735|25
1909|4,493|038|0732|08.1|08,275|91.9|0,451,938|25
1910|4,366|038|0683|07.5|08,403|92.5|0,484,689|26
1911|3,647|038|0664|07.9|07,696|92.1|0,429,380|22
1912|2,891|043|0658|08.6|07,013|91.4|0,349,454|18
1913|4,191|044|0612|06.5|08,856|93.5|0,525,959|25
1914|4,146|041|0538|05.5|09,307|94.5|0,536,939|24
1915|4,369|043|0493|04.6|10,198|95.4|0,548,321|24
1916|4,696|048|0477|03.9|11,826|96.1|0,663,277|25
1917|4,882|050|0368|02.5|14,155|97.5|0,671,729|24
1918|5,867|050|0353|02.0|17,428|98.0|0,776,639|28
1919|6,820|065|0316|01.5|20,664|98.5|0,935,678|33
1920|7,587|072|0352|01.5|23,829|98.5|1,070,255|36
1921|7,551|083|0336|01.4|24,512|98.6|1,097,144|36
1922|7,583|085|0329|01.3|25,451|98.7|1,111,742|37
1923|7,652|094|0322|01.2|26,014|98.8|1,111,566|38
1924|7,336|102|0310|01.2|25,391|98.8|1,096,758|**

(注)** 欄 は,統計の得られなかった部分である。
(出所) Forbes W. Cameron , The Philippine Islands , Vol. I , Boston : Hougiton Mifflin, 1928 , p.448. 教員の比率は人数をもとに筆者が算出した。



表2 公立学校で宗教教育の手続きを行った生徒数 ( 1932〜37年 )

年度| 宗教教育に登録した生徒 ( 比率 )
1932| 29,996 ( 2.5%)
1934|186,228 (15.4%)
    内訳 カトリック 184,720, アグリパイ派 819,プロテスタント 689
1935|164,557 (13.9%)
1937|187,089 (12.5%)

(注) 1934年度以外の宗派別生徒数は記されていなかった。
(出所) de la Rosa (compiler) , "Religious Instruction in the Public Schools" , 1938 [ マニラ国立図書館所蔵 ]





1) ベッケル, テオドール, 鈴木福一他訳 『 列強の植民地教育政策 』 第一出版, 1944年, 108頁。
2) コンスタンティーノ, レナト, 鶴見良行 監訳 「 フィリピン人の受けたえせ教育 」 『 フィリピン・ナショナリズム論 ( 上 ) 』 井村文化事業社, 1977年 など。
3) May, G. Anthony , Social Engeering in the Philippines , Westport : Greenwood Press , 1980.
4) この問題については 拙稿 「 フィリピンの公立学校おける宗教教育制度の成立と展開 」 『 教育学研究 』 第64巻第2号, 1997年6月 のなかで,宗教教育制度の展開との関連で限定的ながら言及した。本研究では,この問題に特に焦点をあててアメリカ植民地当局の資料を体系的・網羅的に参照することで,問題をより包括的に捉えることを試みる。
5) ここでの記述は主に Grossholtz, Jean , Politics in the Philippines , Boston : Little, Brown and Company, 1964, pp.86-98による。
6) May , op.cit. , p.17.
7) ここでの記述は主に アーモンド,G.A., ヴァーバ, S . 石川一雄他 訳 『 現代市民の文化 − 五ヶ国における政治的態度と民主主義 』 勁草書房, 1974年 による。
8) 1903年9月に書かれた。 R [ eport of the ] P [ hilippine ] I [ slands ] 1903 , Pt.3, p.698.
9) Ibid. , p.702.
10) May , op.cit. , pp.100-103.
11) ここでの記述は主に前掲拙稿による。
12) C [ ensus of the ] P [ phlippine ] I [ slands ] 1903 , Vol.III, p.684.
13) 1908年に記された。Quoted in: Schumacher, John N. , Readings in Phlippine Church History , Quezon City: Loyola School of Theology, 1979, p.346.
14) O'Doherty, M.J. " The Religious Situation in the Philippines " The Ecclesiasticl Review , Vol. XXIV , Feb. 1926 , pp.135-136.
15) Moynihan, James H. , The Life of Archbishop John Ireland , N.Y. : Harper & Brothers,1953, p.198
16) O'Doherty , op.cit. , p.133.
17) 順にアルバイ・ソルソゴン支区の1902年度,ミサミス支区の1904年度,ロンブロン支区の1904年度報告である。 R.P.C.1903 Pt.3, p.726 ; R.P.C.1905 Pt.4, pp.523,549.
18) ミンダナオ・ホロ支区の1902年度報告である。 R.P.C.1903 Pt.3, p.771.
19) 東ネグロス支区の1904年度報告である。 R.P.C.1904 Pt.4, p.535.
20) スリガオ支区の1902年度報告である。 R.P.C.1903 Pt.3, p.808.
21) 公教育長官と総督学官による1903年度報告のなかでのモロ州に関する記述である。 R.P.C.1904 Pt.3, pp.828,893.
22) C.P.I.1918 Vol.IV Pt.II pp.6,19.
23) カトリックの通過儀礼の一つ。フィリピンでは現在,10歳前後で受けることが多い。
24) Sixth Annual Report of the Director of Education for the Year 1906 , p.15.
25) R.P.C. 19903 Pt.3, p.732.
26) Sixth Annual Report ....... , p.16.
27) 信徒にふさわしい知識や態度を身につけさせるためにカトリック教会が定める教育課程。
28) バタンガス支区とアンボス・カマリネス支区の1902年度報告である。 R.P.C. Pt.3, pp.731,733.
29) Second Annual Report of the Secretary of Public Instruction [1903] p.693.
30) バタンガス支区とリサール支区の1902年度報告である。 R.P.C.1903 Pt.3, pp.733,802.
31) R.P.C. 1903  Pt.3, p.873.
32) 順に南イロコス・アブラ支区とアンボス・カマリネス支区の1902年度報告である。 R.P.C. 1903 Pt.3, pp.731,757.
33) Salamanca, Bonifacio S. , The Filipino Reaction to American Rule: 1901-1913 , Quezon City : New Day Publishers, 1984, p.70.
34) R.P.C. 1903 Pt.3, p.707.
35) ロンブロン支区とカビテ支区の1902年度報告である。 R.P.C. 1903 Pt.3, p.709,752. 36) C.P.I.1918 Vol.IV Pt.II p.21.
37) バタンガス支区の1902年度報告である。 R.P.C.1903 Pt.3, p.732.
38) Noone, Martin J. , The Life and Times of Michael O'Doherty, Archbishop of Manila , Manila: Casalinda Bookshop, 1988, p.167.
39) ここでの記述は主に ibid. による。
40) Ibid. p.103.
41) Quoted in: ibid. p.167.
42) Quoted in: ibid. p.203.


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以上は,『 国立教育研究所 研究集録 』 第35号 (1997年9月) のための最終ドラフトにもとづき,ウェッブ上での掲載のために若干の加筆・修正を行ったものです。刊行された論文とは異なるところがあります。

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