Aグループ 後期レポート   

作成者:浦野健太、植頭隆道、工藤圭、熊木郷紫、須藤正博、原田正、山口真親

 

 

 

 

 

 

奥村隆『他者といる技法』に基づく調査レポート

外国人留学生の報道について

 

 

 

〜目次〜

 

第1章 このレポートのテーマについて     

原田正

 

第2章 先行研究の概要    

原田正

 

第3章 背景となるデータに基づく仮説  

須藤正博

 

第4章 調査方法について  

山口真親

 

第5章 調査結果の分析

@      留学生への興味、関心について   

山口真親

 

A      留学生への支援態度および支援者について  

植頭隆道

 

B      記事中における留学生の描かれ方について   

工藤圭

 

C      留学生の描かれ方と支援者との関連について    

熊木郷紫

 

第6章 仮説の検証および、「異質な他者といる技法」に対する考察  

浦野健太

 

 

 

 

 

第1章 このレポートのテーマについて  原田正

 

今回の私たちの調査および考察、レポートはゼミ内で使用したテキスト『他者といる技法』の第3章《外国人は「どのような人」なのか−異質性に対処する技法》に基づき、作者の行った調査を拡大する形で調査を行い、さらに独自の考察を加えレポートとした。

 そこで、私たちがテーマとしたのが

「異質な他者といる技法の時代による変化について」

 であった。

筆者のいう「他者といる技法」=「他者と当たり前にいる」こと(意識せずにいつも行為していること。例:会話、うなずき、ほほえむ等)と解し、そうした「技法」の時代による変化を調査した。

『他者といる技法』第3章のなかで、筆者が行っている調査は「1980年代」に限定されていたが、今回私たちは、そこを出発点とし、私たちが異質な他者と出会ったときどのような技法を駆使して対処するのかを時代別(1970年代、80年代、90年代)に考察を試みている。

そして、そこから得られたデータから、「(外国人という)異質な他者といる技法」つまり私たちが外国人に対してどのように接しているのか?ということや、その時代別の変化、さらにどのように接していけばよいかなどについて考察をしていく。

 

第2章 先行研究の概要  原田正

 

 ここではまず、わたしたちの調査の基となった奥村隆『他者といる技法』第3章の要約を記す。

 筆者はこの章において、「外国人」という「異質な他者」に焦点を当て、彼らに対する対処の技法について考察している。

 本文冒頭において筆者は「あなたがもし突然【外国人】と呼ばれる自分とはまったく異質な【他者】に出会ったとき、あなたはどう対応するか?」という疑問を投げかけている。

 この疑問を根底に置き以下のことについて、本章では考察されている。

     異質な他者に出会ったとき、私たちがどうするか?

     「異質性」をまえにしたとき、それに対処するためのさまざまな「技法」が存在しうると思われる。

さらに筆者は、これらを一般化するために「活字メディアの記事」をデータとし、〈新聞や雑誌に「外国人」はどのように描かれてきたのか〉についても考察している。筆者は、様々な外国人の日本への流入が激しくなった「1980年代」に注目している。

その理由として、当時の日本の状況を、外国人に関する知識も乏しく、出会った経験も少なかったので、「(外国人が)どのような人か」というイメージさえも持てない状況であったと捉え、こうした未熟な状態でのメディアがつくるイメージの役割の大きさについても視野を広げ、〈メディアは、外国人を「どのような人」としてつくってきたのか?〉ということにも言及している。

この問題に関し、メディアの持つ特性について、「メディアはある【枠組み】によって出来事を選択し、解釈し、強調して、イメージを構築する。そのイメージを、受け手である私たちも、その対象に向かうときの手持ちのイメージとして使用する。」とし、日本のマスメディアは「外国人」という対象についてどのようなイメージの「枠組み」を作り出してきたのか?という事への視点にも注目している。

以上の事柄を1980年代の『朝日新聞』の記事を中心に、「外国人」のなかでもとりわけ、「女性労働者」と「留学生・就学生」に対象をしぼり、マスメディアが「外国人」に対し与えている「枠組み」とそこから生まれる「イメージ」について考察している。

そこでまず筆者は「外国人」へのイメージの原点について述べており、筆者はそれを「コワイ」であるとしている。「外国人」という「異質な他者」に出会ったとき、「何をされるかわからない」という不安から「コワイ」というイメージを持つというのがその理由としてあげられている。筆者はこれ以外のイメージを「女性労働者」「留学生・就学生」にまつわる記事のなかから見出している。

まず、「女性労働者」の記事から読み取れることとして、『朝日新聞』と週刊誌での記事から受けるイメージの違いについて述べている。『朝日新聞』が一貫した「カワイソウ」イメージでの報道をしていたのに対し、週刊誌では「もの(性的客体)」としての「キタナイ」イメージ、「人」として「ケナゲ」なイメージそして「タクマシイ」「ガメツイ」「ズルイ」といったイメージと様々なイメージの報道をしていた。

この点から、メディアの持つ枠組みに関して、『朝日新聞』が「女性労働者」=「悪者(ヤクザ・ブローカーetc)」に痛めつけられる「カワイソウ」な「客体」という枠組みで彼女たちを捉えていて、そこからはみだすような「タクマシサ」「ガメツサ」「ズルサ」をもった「主体」としての彼女たちの姿は採用しないというメディアのあり方がうかがえる。

「留学生・就学生」の報道に関しては、『朝日新聞』というひとつのメディアの報道が時期的にそのイメージを変容させたことに注目している。

1987年の記事では「カワイソウ」な「客体」としてのみ登場していたのだが、翌年1988年の記事では、「主体」的に金を目的として入国する「ガメツサ」や就学の偽装をする「ズルサ」を強調しており、最終的には「カワイソウ」と「ガメツイ」「ズルイ」というまったく異なる二つの枠組みを同時に持つこととなった。

これら二つの記事から、「外国人」へのイメージとして「カワイソウ」「キタナイ」「タクマシイ」「ガメツイ」「ズルイ」というものがあることがここからいえる。

  これまでの「活字メディア」の生み出す「外国人のイメージ」をふまえ、筆者は以下のような「外国人のイメージ」から引き出される「異質性」への対処の「技法」をあげている。

 @「外国人」を「何をするかわからない主体」と捉えた結果「コワイ」というネガティヴなイメージを持ち「排除」する。

 A「外国人」を「客体化」するために「キタナイ」というネガティヴなイメージで捉え、「差別」する。

 B「外国人」を「悪者に痛めつけられる客体」という枠組みで捉え「カワイソウ」というイメージを作り「同情」「援助」する。

 筆者は、このような外国人に対するイメージを整理するために、図のような独自の「座標」を用いている。その座標を構成する「軸」だが、まず、他者(つまり外国人)が記事において、「主体」(能動的な「人」)として登場するか、「客体」(受動的な「もの」)として登場するかについての第一の軸、それと、そのイメージが「ポジティヴ」(肯定的・好意的)なものか、「ネガティヴ」(否定的・非好意的)かを示す第二の軸を設定し、この二つの軸をクロスさせ座標を作っている。


 


 そして、このニ軸のクロスによりできる「4つの象限」に先述の「イメージ」をあてはめて整理し考察をしている。つまり@は「主体×ネガティヴ」の第一象限、Aは「客体×ネガティヴ」の第二象限、Bは「客体×ポジティヴ」の第3象限となる。

 このように、座標平面上に整理したうえで筆者は、「外国人に対する技法」ついて以下のように述べている。

 @Aは「外国人」を受け入れない方向性の技法。Bは「ポジティヴ」に受け止めてはいるが、「外国人」の「主体」としての側面を削除しており、彼らの「主体」の側面に出会った場合には対処ができないとし、@ABはいずれも、「異質な他者」に対処する「技法」としては適切ではないとしている。

 そこで筆者は、テキスト内では登場しない「第四象限」つまり「主体×ポジティヴ」な外国人に対する「技法」こそ適切であるとしている。

その例として「同質化」して「協力」するという「技法」をあげているが、そうではなく、あくまでも「外国人」を「異質な他者」として、かつ「主体」としてのかれらと接する「技法」の必要性を指摘し、今回の調査範囲の記事の中にそれを見出すことは出来なかったとしている。

 

第3章 背景となるデータに基づく仮説  須藤正博

 

 次に、実際に調査をするにあたり、私たちが立てた仮説、そしてそれを裏付けた、背景となるデータに話を進めたい。

 仮説設定の段階で、私たちは複数のアプローチを試みたのだが、それらの中で、特に意味が見出せたものが、制度という側面である。留学生という他者に対する日本人の考え方、もしそこに何らかの変化が見られるとすれば、おそらく、その時代に制度化された、決まりごと、ルールというものが関連しているのではないかと考えたのである。以下、90年代までに見られた制度を、その古い順に見ていきたい。

 最初に挙げるのは、1983年の「留学生のアルバイト解禁」についてである。それ以前、原則としてアルバイトを禁じられていた留学生が、これにより誰でも自由にアルバイトをし、お金を得ることができるようになったのである。もちろん、それにより彼らが学費のすべてを抽出するとは当然いかなかったであろう、しかし、アルバイトが制度化されたことで、彼らが日本での生活に際して抱く、金銭的な面での不安というものも少しは解消されたのではないかと考えることはできる。また、この制度は、19906月に「出入国管理および難民認定法」という形で改定され、留学生は各地方の入国管理局などで、「資格外活動」の許可を得なければ、働くことができなくなった。そして、許可を得て働くとしても、原則一日4時間以内という規定が設けられたわけだが、その背景には、「日本で学ぶ」という名目で、じっさいには働いて賃金を得る、といった留学生が後を絶たなかったことが挙げられており、それをみても、この制度により、どれだけの留学生が金銭的に救われたかということを考えることができる。

 次に1987年、文部省が私立の大学、短期大学に在学する私費大学生に対しておこなった、「授業料援助」について考えてみたい。これは、具体的には文部省が、授業料の30%を援助する制度である。しかし、ここで注目したいのは、この制度自体よりむしろ、この制度ができたことにより、これ以降、多くの国立、私立大学で、独自の授業料減免制度がもうけられたという、二次的な効果についてである。このように、各大学で授業料減免制度が設けられたことにより、文部省の援助と合計して、50%減免、70%減免といった状況も生まれたのだ。この制度も、当然、在日留学生に対し何らかの変化をあたえたと言う事はできるであろう。また、政府は引き続き、1988年に労働省が発表した「外国人労働者問題研究会報告書について」の中でも、留学生や研修生の拡大について言及している。

 制度的側面からのアプローチ、最後に扱うのが、1996年の「入国、在留のための保証人制度の廃止」である。日本は諸外国と比べても、比較的、生活の様々な場面で身元保証人が必要になる、いわば、保証人社会である。アパートを借りる際や大学の受験、入学でさえ必要なケースもあるのだが、外国人である留学生にとって、要求される在日の身元保証人を見つけるのは困難である。当然、それは入国、在留にも必要とされており、日本留学を阻む最大の障壁であるとまで言われていた。こうした状況の中、そのような制度が廃止されたことにより、長い間留学生を悩ませてきた、大きな「壁」のひとつが取り除かれたのである。

これらのような制度が、当時の留学生に対し果たした意味は、とても大きなものであったことが予想されるが、ここでさらに「保険制度」というものを別個に取り上げることで考察を深めてみたい。

 日本国際教育協会という団体が行っている留学生支援事業のひとつに「外国人留学生医療費補助制度」というものがある。これは、留学生が病気やけがをした際、その治療のために日本国内の病院などに支払った医療費の80%を補助する制度である。またそれとは別に、1年以上日本に滞在する留学生は入国時に、けがや病気をした時の医療費の負担を軽減する目的で、国民健康保険などといった、医療保険制度に加入することが義務付けられている。これらを組み合わせることで、留学生の最終的な自己負担を、医療費全体の6%にまで下げることが可能なのである。このように、医療という側面においても、留学生に対して次第に恵まれた環境が整っていったのである。

仮説背景、その最後に「国費留学生の数」も補足しておく。70年代後期には1300人程度の国費留学生が、80年代を経て、90年にはその数、約5000人に増加。その後も増えつづけ、95年には7000人を突破したというデータがみられている。

以上のことを踏まえ、私たちが各年代において立てた仮説は以下のものである。

70年代「外国人の数が少なく、そのため、面だった支援制度も少ない。さらには日本国民の彼らに対する知識も乏しいため、留学生に対して排除的、否定的態度が見られた。」

80年代「70年代に比べて外国人が増加し、それに伴う形で、国民の知識、支援制度も増加した。しかし、この支援的な態度は留学生を客体(カワイソウ)と  するものであり、留学生に対して、同情的な態度が多く見られた。」

90年代「さらに外国人の数は増え、80年代の知識、制度はより整備された。彼らに対する否定的態度は見られず、むしろ、受け入れ姿勢が強く見られる。」

 

第4章 調査方法について  山口真親

 

 私達は調査するに当たって、その調査対象となるメディアを新聞とし、1970年代・80年代・90年代の朝日新聞の記事を調査することにした。

 ここで、当初は同じ記事を数通りの見方をするという目的で、ひとつの新聞だけに偏らずに、読売新聞、毎日新聞も調査対象にする予定だった。しかし、目的の記事を収集するに当たって、30年分という膨大な記事の中から、しかも3紙を手作業で検索するのは困難であるため、CD-ROMWEB上のデータベースなどで一括管理されているものから検索するという方法を採用することにした。また、学外メディアの資料は入手する事が難しかったため、基本的には立教大学にある資料で調査を試みた。その結果、CD-ROMあるいはデータベースのなかった読売新聞、毎日新聞からの検索は、断念せざるを得なかったのである。

 朝日新聞は70年以降の記事がCD-ROMかオンラインデータベースで管理されていたため、私達は「留学生」という言葉を検索条件にし、記事を抽出した。

 そして、こうして抽出した記事をさまざまな項目でカテゴリー分けをして、エクセルの表にデータベースを作成した。そのカテゴリー分けの項目は以下の通り。

     文字数(1.1000文字未満、2.1000文字〜2000文字、3.2000文字以上)

日付(6桁表示)

年代(1.7074年、2.7579年、3.80年〜84年、4.85年〜89年、5.90年〜94年、

6.95年〜)

対象(1.個人、2.複数、3.全体、4.個人+全体、5.複数+全体(※1)

年齢(1.10代、2.20代、3.30代、4.不明、0.対象が複数等のため記入の必要なし)

性別(1.男性、2.女性、3.不明、0.複数)

出身国(1.中国、2.韓国、3.アジアその他、4.欧米、5.その他、6.不明、0.複数)

滞在年数(1.未滞在、2.1年未満、3.13年、4.4年以上、5.不明、0.複数)

主客(2)1.主体、2.どちらかといえば主体(→準主体)3.どちらかといえば客体(→準客体)4.客体、5.どちらとも言えない)

肯定・否定(3)1.ポジティブ、2.ネガティブ、3.どちらとも言えない)

支援態度(4)1.支援・協力的、2.非支援・非協力的、3.どちらとも言えない)

支援者(5)1.国・行政、2.個人・民間団体、3.経済的要因、4.企業、5.大学、6.その他)

・備考(記事の要約)

1 記事中で対象となる留学生を個人、あるいは複数としながらも、その記事が留学生全体に関わる事を示唆している場合。

     2 記事中で、対象となる留学生がどのような立場で描かれているかを区別。

     3 その記事が読者に与える、対象となる留学生あるいは外国人全体のイメージ。

     4 大半の記事では日本人が何らかの形で対象者と絡んでいるため、登場する日本人が対象の外国人にとってどのような態度を示しているか。

     5 記事中の日本人(「支援態度」の行為者)は誰なのか。

 

このカテゴリー分けをもとにデータを集計し、各項目のデータから得られる傾向を分析した。ここからはその分析結果を記述していく。

 

 

 

第5章 調査結果の分析

@留学生への興味、関心について  山口真親


 このグラフはデータ中の「文字数」と「年代」の項目をクロス集計したものである。

 まず、年代ごとの総記事数について、70年代に比べ、80年代以降は明らかに増加しているのが分かる。完全な右肩上がりにならないのは、突発的な事件や日本国内の社会情勢などの不確定要素によって記事数が多少左右されるからである。しかし、全体的な傾向としては留学生に関する記事は年代を追って増えている。

 多くの事を語る1000文字以上の記事は75年から増えている。1000文字以上の記事が全体の記事数に対する割合は、75年にはまだ20%ほどだが、76年−29%、77年−38%、78年−54%、79年−43%と基本的に増えているのが分かる。では、70年代後半〜80年代に特に多い2000文字以上の記事にはどんな内容のものがあるのかというと、

国際学友会学費アップと円高で日本留学が高き門になっている

社説:私費留学生がほとんど→政策の拡充を求める

修業年限が中国と日本と違うことの問題

といった留学生政策について進言するような記事が目に付く。つまり、この頃を境に留学生対策というものを本腰を入れて考え出したのだと推測できる。

 また、80年代については1000文字未満の記事と1000文字以上の記事の割合がほぼ同じになっている。80年代の記事は、留学生を取り上げ始める70年代や、制度や社会の対応が整ってきて、留学という概念が普遍化してきた90年代に比べ、より多くの情報を伝える必要があったのである。

A   学生への支援態度および支援者について  植頭隆道

ここでは70年代、80年代、90年代と仮説に照らし合わせて年代を区切って、それぞれの「支援行為者」がそれぞれどのような「支援態度」をとっているのかを見たグラフを中心に、仮説を検証していく。


 


 まず70年代であるが、仮説に基づいて支援者の多数が「非支援、非協力的」であるという予想が立てられる。しかし、グラフからそのような結果は読み取れない。ただし「個人、民間団体」において、80年代、90年代(以下に示す)と比較して相対的に非支援、非協力的態度が強いと言える。だが、70年代全体を見ても「非支援、非協力的」は「支援、協力的」の半数にしか及んでおらず、やはり仮説が覆される結果であると言った方が適当であろう。


 


 次に80年代である。このグラフでやはり目立つのは「個人、民間団体」での「支援、協力的」の項目の突出ぶりである。70年代は「国、行政」とほぼ同数であったのが、ここでは他を完全に置き去りにしている。また「経済的要因」における「非支援、非協力的」の項目の伸びは、円高によるものである。さて、仮説との比較であるが、80年代のみを見ればそう言える感じではある。しかし、70年代との比較で見ると「個人、民間団体」はより支援的になっていると言えるが、「国、行政」がより非支援的になっている。このことからも「仮説は全くそうである」とは言い難い。

 


 そして90年代。ここでも「個人、民間団体」での「支援、協力的」の項目の突出が目立つが、「企業」「大学」にも(70、80年代との相対的比較ではあるが)留学生支援の芽が出てきたと言える。また95年以降に限ってみると、「大学」の支援的な記事数と「国、行政」のそれとがほぼ同数にまでなっている。各大学での国際交流が活発化してきた証拠であると言えよう。また、留学生は「大学」で学び、それを「企業」で活かす(海外進出する日本企業と現地との懸け橋的な役割を期待される)のであるから、つまりは現場での直接的な支援が登場してきたと言うことであろう。このこともふまえて仮説を立証してみようとすると、一見できそうである。だが、「国、行政」「大学」において支援と非支援の均衡が見られるように、やはり一概には言えない。

 これまでは数的なものに限って見てきたが、それだけでははっきりとした結果も見られないので、一つ一つの記事をもう少し深くさぐりながら、検討することにする。

 そこでまず、80年代と90年代の「国、行政」の支援、非支援の均衡について詳しく見るために、以下に示したように5年毎に区切ったグラフを見てみる。ここで注目できるのが、80〜84年と90〜94年での「非支援、非協力的」が「支援、協力的」を上回っている事である。

仮説通りだとすると、年を追うごとにより支援的になっていくはずであるが、このグラフを見る限り支援と非支援が交互にそれぞれを上回っている。そこで非支援が支援を上回っている年代における非支援的な記事の内容を見てみると、80〜84年では留学生の保険、選挙、受け入れ態勢などのいわば枠組みの問題があり、90〜94年には授業料、奨学金、受験料と言った80〜84年よりもつっこんだ問題があがっている。つまり、留学生のためにある制度が出来たり、適応されたりすると非支援的な記事が減り、しかし、その後にはまた新たな制度改革の必要性が期待される。制度はそんなに急には作ることができないので、次を望む声が多い時期には非支援的な記事が多いということであろう。(一概に5年周期とは言えないが)前の年代の声を解消するために、次の年代には制度が作られ不満の声が減った結果、非支援の記事も減る、この繰り返しがこのグラフの「のこぎり型」の原因であると言える。

 また、90年代の「大学」における支援と非支援の均衡を明らかにするために、それに関する記事の内容を見てみると、留学生の募集を呼びかけている一方で、国の財政難のため私立大学には文部省の予算が下りないといったあおりを受けているなど、その内容も均衡している。

 

 ここでは年代毎に、それぞれの「支援行為者」がそれぞれどのような「支援態度」をとっているのかを中心に、仮説を検証してきたが、その年代毎に点で見ると仮説が立証できそうな面もあったが、線で見たときにはそれぞれの点が仮説とは違ったつながりで線をなしているということがわかった。

 

B 記事中における留学生の描かれ方について  工藤圭

 


 このグラフはデータの「主客」と「肯定・否定」の項目をクロス集計したものである。(だが、「主客」の項目については、調査の段階では「主体」「準主体」「準客体」「客体」の4つの判断基準を用いたが、このグラフにおいては見やすさのために「準主体」「準客体」は、それぞれ「主体」「客体」の項に統一してある。)

ここで念のため再度確認しておくが、「主客」の項目は「その記事中で、留学生が主体的に描かれているか、客体的に描かれているか」を判別したものであり、「肯定・否定」の項目は「その記事中で、留学生が肯定的に描かれているか否か」を判別したものである。また、この2つの項目は先に要約を記した『他者といる技法』に基づいて調査したものである。

そして、このグラフにおいて注目したいのは「ポジティブ−主体」の項である。このグラフだけを見ても、なぜそこに着目する必要性があるのかわからないかもしれない。しかし、私たちのこの調査の基となっている『他者といる技法』においては、この「ポジティブ−主体」の関係こそが座標の中でも理想とされる「異質な他者といる技法」であり、しかも、その具体的なあり方はまだ模索中の段階であることが述べられている。「・・・これは、もちろん、この文章で考察できる範囲をはるかに越えている。ここでいえることは、わたしが調べた「外国人」を報道する一九八〇年代のほんのわずかの記事には、この第4象限にいつづける「技法」は、発見できなかった、ということだ。新聞や雑誌の記事は、それ以外の象限に、・・・着地点を見出し続けていたのだ。」(p121)と筆者は明言している。

つまり、私たちの行なったこの調査では、明らかに筆者の主張とは異なる結果が表れているのである。筆者の主張とは裏腹に、私たちの調査結果では138件もの「ポジティブ−主体」にあたる記事が発見されている。では、この違いは一体どこから表れたのだろうか?

その理由の一つには、先の座標上にて「ポジティブ−主体」の枠に一応収まる、筆者が「ケナゲ」「タクマシイ」と表現する状態の存在が挙げられるであろう。わたしたちの調査結果の138件の中には、筆者の言う「ケナゲ」「タクマシイ」に当たる記事が含まれているのだろう。筆者が不十分だと考えてはいるが、一応「ポジティブ−主体」の枠に入っているためだ。しかし、そういった問題ではなく、もっと根本的な理由も存在するように思われる。それは筆者の「主客」というものの捉え方にある。筆者は「客体」とは「その人がなにをするかではなく、なにをされるかに照準するということだ。」(p112)と言う。とすれば同様に、「主体」とは「その人がなにをするか」に「照準」したものと筆者は言うだろう。その点についてはわたしは異存はない。わたしたちも実際にそのような基準を持ってそれぞれの新聞記事に主客の判別を下した。しかし、そもそもの筆者が持つ「主体」「客体」のあり方には少々疑問が残る点がある。それは、わたしたちが「異質な他者」と接する時に、わたしたちはその「異質な他者」の「主体」に恐怖する、という点である。自分が「客体」にされてしまう恐怖、とも述べている。筆者は「異質な他者」に出会ったとき、「どちらかが『主体』となるかわからない・『客体』にされるかわからない、宙吊りの状況がいったん成立する。」(p108)と言う。また、「同質な他者」であれば、お互いの「主体」同士が対面しても、その「ポジティブ−主体」の枠にとどまる事は容易だとする。そのような基礎概念を持って筆者は「主客」を論じているのであるが、実際の現実的な場面において「主客」とは本当にそのようなものなのであろうか?

わたしたちが「人」と接する時、既存の枠組み(「外国人」「女性」など)にあてはめることによって、その人を理解の容易な「客体」として捉えることはあるが(というよりむしろ、「理解」とはそのような方法の積み重ねであるとも言える)、実際はそれだけではないはずである。わたしたちは「人」に接するとき、その相手が自らの意思で言動を行なう「主体」の側面を持っていることを、嫌が応にも認識させられる。自分が相手に対して何かしらの言動をすれば、当然相手も何かしらの反応を必ず示すからである。これは言うまでもなく至極当然なことだ。つまり、永久にそれぞれが「主客」どちらか一方であるかのように受け取れる筆者の考えはあまりに観念的であり、現実的ではないと言えよう。「主客」とはどちらかの二択でしかないのではなく、その瞬間瞬間によって変化するようなものである、という方がより現実的ではないだろうか。新聞記事の中において留学生の「主体、客体」を判別しているのは、そういった現実的なコミュニケーションにおける「主客」ではなく、あくまでその記事中における留学生の位置の問題である。例えば、「留学生」が「民間団体」の力を借りて何かを成し遂げた、という記事では「留学生」は「主体」と分けられ、「民間団体」が困っている「留学生」を支援した、という記事では「客体」と分けられる。だが、これらは無論、その「留学生」のある一時期、あるいは一瞬を捉えた上での「主客」の判断に過ぎないのだ。

わたしたちの調査結果に「ポジティブ−主体」が数多く登場し、筆者の主張との間に大きなくい違いが表れた最大の原因はこの点にある。

C 留学生の描かれ方と支援者との関連について  熊木郷紫

 

前の章で私達の調査において「主体、客体」を分けているのが「記事における留学生の位置」によるものだと分かった。ではこの章では主客と支援者について詳しく見てみたい。

 まず下の2つの図を見てみよう。これは留学生を客体的に扱っている記事の支援者と主体的に扱っている記事の支援者についてのグラフである。主客を一つのグラフにすると分かりづらくなるので2つに分けてみた。


 


 


この2つのグラフを見ると、留学生を客体的に扱っている記事は各年代とも多く特に変化が見られないが、主体的に扱っている記事には変化が見られる。80年〜84年、90年〜94年、95年以降は増えている。なぜか?

ここで私達は、90年〜94年の年代から95年以降の年代にかけて、「個人・民間団体」を支援者とした「主体」の記事が増えていることに着眼して、その要因を探ろうと思う。というのは、90年〜94年の年代から95年以降の年代にかけて、「個人・民間団体」の「主体」の記事数の変化があまりにも顕著であるため、そこになんらかのメカニズムが存在するのではないかと考えたからだ。


まず、上の図を見てほしい。これは、90年〜94年、95年以降のそれぞれの年代における、「個人・民間団体」が支援者として記事に登場したときの、留学生が「主客」どちらで捉えられているかを表しているグラフである。

このグラフから95年以降に「個人・民間団体」を支援者として、留学生を「主体」として捉えている記事の割合が大きいことが分かる。留学生が「主体」として描かれているということは、留学生が記事の中心に据えられているということである。

(例:「留学生」が「民間団体」の力を借りて何かを成し遂げた、という記事=主体)

( :「民間団体」が困っている「留学生」を支援した、という記事=客体)

 では、何故「主体」の記事の割合がこんなにも多くなったのだろう。

解決する手段として「メディアフレーム」という考え方が挙げられる。「メディアフレーム」とは、「何かを隠蔽する」ということではなく、「何をすすんで書くか」というものである。つまり95年以降において、留学生を記事の中心に据えた書き方というものが、なんらかの要因により積極的になされたのではないかと考えることができる。(95年以降の考察はこの章の最後で行なう)では次に、各年代を「メディアフレーム」という考え方を通して考察していこうと思う。

 最初に70年代、85年〜89年、90年〜94年のメディアフレームについてみてみたい。まず70年代のメディアフレームであるが、この年代は他の年代に比べて、留学生への一般認識がされておらず、メディアとしては「留学生政策」「支援団体の動向」などを通して留学生をみる記事の方が、留学生を「主体」とする記事より扱いやすかったのではないかといえる。又、85年〜89年は「円高」や、「政府の政策拡充」、「支援の担い手が広がっている」などの社会的背景を通して留学生を描く記事の方が、新聞の書き手側としては扱いやすく、留学生を「主体」とする記事より、魅力があったのではというメディアフレーム。90年〜94年は「支援団体の支援の拡充」、「支援の担い手が企業、大学へと広がり、そうした新しい支援の担い手による留学生支援」などの「留学生支援」の変化を通して留学生を見る記事の方が書き手側からしてみれば、メディア的に魅力があったというメディアフレームをつくることができると考える。

次に私達が注目した、80年〜84年と95年以降のメディアフレームについて考えてみたい。

手始めに80年〜84年の記事の内容についての備考を探ってみてみよう。支援者が個人、民間団体の場合は「モンゴル留学生の技術者への夢」(80/4/27)、「社員寮での集団自炊生活」(80/5/1)、という記事がみられ、支援者が国、行政の場合は「アメリカ人の高校生留学生の生活の様子」(82/12/1)、「留学生から見た日本の選挙」(83/6/24)、「豪州の留学生が都立高の門戸開放を都に訴える」(84/1/19)という記事がみられた。このような記事からメディアフレームを考えてみよう。まず制度の整備を挙げることが出来るだろう。制度がある程度整備され(1983年の留学生のアルバイト解禁など)、制度面に関して少し落ち着いたことにより記事の内容が一時的に留学生の視点に近づいたと考える。又、留学生拡大が背景として行われたということもメディアフレームに影響を与えたのではないか。「留学生受け入れ増加に向け長期計画に本腰」(83/9/18)という記事から当時に留学生の受け入れを拡大する動きがあり、拡大に向けて一度留学生の視点(実際にどのような夢をもち、どのような生活を日本でおくっているか)に立つ必要があったということが考えられる。事後的なものだが1980年〜85年を境目として留学生が著しく増加している。留学生の数の変遷として1974年は4316人、1987年は17573人、1993年56309人と増加しているが、1974年から1987年への増加より、1987年から1993年の増加人数は圧倒的におおい。このことから1980年〜85年にメディアが留学生の視点になって考えていた事から留学生の増加につながったのではないか。

 そして最後に95年以降のメディアフレームについて考えてみたい。95年以降の支援者の特徴として、前述したとおり「個人・民間団体」における「主体」が圧倒的に増えたこととが挙げられる。「個人・民間団体」が支援者となっている記事には、「自国に大学を作ろうとする元留学生を支援団体が支援」(97/1/6)、「留学生が祖国の子ども達に文房具を送るため、日本で呼びかける」(98/7/27)などがあげられる。このような記事を参考にすると、記事の中では留学生が自主性や積極性をもって主体的に活動していることを日本人が補助的に手助けしてあげるということがいえる。ここでのメディアフレームとしては、以前は支援者として新聞記事に登場してきた「個人・民間団体」の記事への描き方として、留学生を「客体」として描き、「個人・民間団体」を中心に描く手法がなされてきていたが、メディアは国際化という時代の流れから、留学生が個人や民間団体に登場する日本人の支援を受けて何かをやり遂げることを話題とした描き方、つまり留学生を「主体」として描く手法に積極的であったのではないかと考える。

 このようにメディアフレームという考え方をもちいることにより、80年〜84年、95年以降の主体の多さを説明できるだろう。以上がこの章の考察である。

 

第6章 仮説の検証および、「異質な他者といる技法」に対する考察

浦野健太

では最後に、私達が最初に立てた仮説を、私達の調査内容から検証してみようと思う。

私達が立てた仮説は以下の通りである。

70年代「外国人の数が少なく、そのため、面だった支援制度も少ない。さらには日本国民の彼らに対する知識も乏しいため、留学生に対して排除的、否定的態度が見られた。」

80年代「70年代に比べて外国人が増加し、それに伴う形で、国民の知識、支援制度も増加した。しかし、この支援的な態度は留学生を客体(カワイソウ)と

するものであり、留学生に対して、同情的な態度が多く見られた。」

90年代「さらに外国人の数は増え、80年代の知識、制度はより整備された。彼らに対する否定的態度は見られず、むしろ、受け入れ姿勢が強く見られる。」


 


では、仮説の真偽を検証したいと思う。

上の図は、(5章Cに引き続き)私達が調査した新聞記事の「主体、客体」、「ポジティヴ、ネガティヴ」を「年代」とクロス集計させたグラフである。まず、70年代について見ていこうと思う。仮説では、「外国人の数が少なく、そのため、面だった支援制度も少ない。さらには日本国民の彼らに対する知識も乏しいため、留学生に対して排除的、否定的態度が見られた。」とある。

たしかに、他の年代と比べると、外国人の数も少なく、面だった支援制度も少なかったのだが、けっして、留学生に対して排除的、否定的態度が多かった訳ではないようだ。というのは、排除的、否定的態度が多かったならば、外国人留学生に対して、もっとネガティヴなイメージが先行していなければならないからだ。上のグラフの70年代の箇所を見てみると、留学生に対してネガティヴなイメージ(『他者といる技法』で言う「コワイ」「キタナイ」)を抱く記事(「主体*ネガティヴ」「客体*ネガティヴ」)がわずか4つしかないのである。(70年代の総記事数=59)

また、このグラフ以外でも、(5章Aで扱った「支援態度」「支援者」をクロスさせたグラフ)70年代において、留学生に対する排除的、否定的態度は全然多くなかったことが分かる。

次に、80年代についてである。80年代の仮説は、「70年代に比べて外国人が増加し、それに伴う形で、国民の知識、支援制度も増加した。しかし、この支援的な態度は留学生を客体(カワイソウ)とするものであり、留学生に対して、同情的な態度が多く見られた。」というものであった。

純粋に70年代からの流れだけで見れば、80年代は70年代より、留学生の数も増え、法整備も進み、留学生に対して支援的になったということは言えると思う。ただ80年代は『他者といる技法』でも扱っていた時代であるが、私達の調査は、著者の「留学生を、主体*ポジティヴに扱っている記事は見あたらなかった」という主張を覆すものとなった。前ページのグラフを見てみると、80年代において、「主体*ポジティヴ」の記事数を見てみると、41個もあった。(80年代の総記事数=109)つまり、私達の調査の中では「主体*ポジティヴ」な記事を「客体*ポジティヴ」な記事(『他者といる技法』での「カワイソウ」)と同じくらい見つけることができた。(これは、5章B、Cでも言っていることなのだが、)

私達の80年代における仮説は、『他者といる技法』をもとにして考えたものであるから、私達の予測では、「客体*ポジティブ」(「カワイソウ」)な記事が多く、その中に少しネガティヴな記事があると予測しており、やはり、『他者といる技法』の著者の言うとおり、「主体*ポジティブ」な記事の存在は予測外のことであった。調査の結果からは仮説が覆されたと言えると思う。

90年代においては、「さらに外国人の数は増え、80年代の知識、制度はより整備された。彼らに対する否定的態度は見られず、むしろ、受け入れ姿勢が強く見られる。」となっている。

実際の調査結果を見てみると、仮説では「否定的態度がまったく見られない」とあるが、前ページのグラフを見てみると、留学生に対して「ネガティヴ」なイメージを抱いている記事が、70年代、80年代、90年代と進むにつれ多くなっていることが分かる。つまり、90年代においては、「法整備も進み、知識も増え、受け入れる姿勢が見られるが、その一方でネガティヴなイメージを我々に持たせるような留学生までも、広く受け入れてしまった。」ということが言えると思う。

また、仮説では触れていなかったのだが、90年代(とくに95年〜)において、留学生を「主体*ポジティヴ」なものとして捉えている記事が多く見られた。これは、5章Cで触れた、「支援者」が「個人、民間団体」であるときに、「個人、民間団体に焦点を当てた記事ではなく、留学生に焦点を当てた記事が増えている」ということに関連していると思う。(ちなみに70年代においても、若干ではあるが「主体*ポジティヴ」な記事が見られた。)

 

ここまで仮説の検証をしてきたが、整理する意味も含めて、仮説が覆された点において、各年代で気になるところを列挙してみる。

70年代: ・意外と支援が進んでいた。(5章Aを参照)

・若干ではあるが、「主体*ポジティヴ」な記事があった。

80年代: ・「主体*ポジティヴ」な記事の記事数が「客体*ポジティヴ」な記事の記

      事数と同じくらい存在していた。

90年代: ・「ネガティブ」な記事が他の年代と比べて多く見られた。

     ・「主体*ポジティヴ」な記事が多く見られた。(とくに95年〜)

70年代の「意外と支援が進んでいた」というのは5章Aで言及している箇所なので、そちらを参照してほしい。また、90年代の「ネガティヴな記事が他の年代と比べて多く見られた」というのは、私達の集計表の90年代の「備考」の欄を見てみると、ほとんどが「犯罪関連の記事」であることが分かった。つまり、90年代においては、前述したとおり「法整備も進み、知識も増え、受け入れる姿勢が見られるが、その一方でネガティヴなイメージを我々に持たせるような留学生までも、広く受け入れてしまった。」ということであると思う。

また、各年代通して存在する「主体*ポジティヴ」の記事については、5章B、Cで言及している通り、『他者といる技法』の著者が挙げていた「主体、客体」の定義が、私達が調査時に解釈した「主体、客体」と違うためである。新聞記事の調査の上で、留学生の「主客」を考察するのならば、「主客」というのは、新聞記事において「留学生」と「支援者」のどちらを記事の中心に据えているか、ということによると思う。

(例:「留学生」が「民間団体」の力を借りて何かを成し遂げた=主体)

( :「民間団体」が何かをしようとしている留学生を支援した=客体)

このことが私達の仮説を覆す最大の要因であったように思われる。

 

 

「仮説の検証」から言えること 〜異質な他者との付き合い方について〜

私達は調査の結果、「主体*ポジティヴ」というイメージを我々に与える異質な他者(外国人留学生)に多く触れることができた。これは私達が、調査媒体である新聞記事において、「留学生」、「支援行為者」のどちらにスポットライトを当てたかによって、つまり、どちらの側から記事が描かれているかによって「主客」を判別していたからである。これは新聞などの実生活を描いている媒体を調査するのに際し、『他者といる技法』の著者が用いたような、理念的な「主体、客体」の定義よりも有効なものであったと思う。今回の調査で使用した新聞の記事などにおいては、ある一場面に焦点が合っていて、その記事の中で「どちらの側にスポットライトを当てて記事を書いたか」ということが「主体、客体」の分かれ目となっていたのだが、では実生活の他者との付き合いにおいて、「主体、客体」というものはどのように選定されていくのであろうか。

まず最初に触れておきたいのだが、外国人留学生を「異質」として捉えた『他者といる技法』における「他者」というものの捉え方に疑問を感じる。では、逆説的に言うと、我々(『他者といる技法』であげているのは身近な友人など)は何をもって同質と言えるのだろうか。確かに、「同じ国籍」「同じ学校」「同じ学部」など、同じカテゴリーに属している数は多いと思う。しかし、そういう間柄においても、どこかで必ず、属しているカテゴリーが違うということがあるはずである。「同質」ということは「自分とまったく同じ」ということである。自分と他者がまったく同じ、つまり「同質」であるということはあり得ないことであろう。そうすると、我々の中にも「異質」な他者が生まれることになるはずである。そうなると、「異質」「同質」の定義も曖昧にならざるを得ないと思う。

つまり、相手がたとえ外国人留学生であっても、我々の間柄であっても、「異質」「同質」と選別することはできないのではないか。であるから、小見出しを「異質な他者との付き合い方」としたが、この先考察を進めていく中で、「他者との付き合い方」として話を進めていこうと思う

 私達は現実の生活上においては、他者を「主体、客体」のどちらかと選定してコミュニケーションをとっていることはなく、相対する他者は、ある時には「主体」となり、ある時には「客体」となる。また「主体、客体」の間で、明確な選別というものは存在せず、『他者といる技法』の座標を参考にすると、原点に近いところを右に左に行ったり来たりしているだけなのではないか。つまり、私達はコミュニケーションの前と間、二者の間で絶えずそういう状態になっているのではないかと思う。

そうなると、『他者といる技法』の著者が示していた座標というのは少しおかしい。というのは、相対する他者によって、相手を「主客」「ポジティヴ、ネガティヴ」などのイメージで選別しそのイメージによって、「排除」「差別」「同情」ということを普段のコミュニケーションで我々はやっているのかというと、そんなことはなく、前述したように、「主客」に明確な選定基準がないため、二者が原点あたりを行ったり来たりしているだけなのではないか。つまり、私達は普段「排除」「差別」「同情」「?」というものを目指して異質な他者と付き合っているのではなく、原点近くを基にしつつ、特に何を目指すでもなく付き合っているように思う。というのは、『他者といる技法』の著者が示していた座標の基準はそれを持っている個人であり、座標の原点がまさに自分をあらわしているからである。つまり、我々は異質な他者とのつきあいにおいて、自分にとって他者の理解を可能にするため、たえず原点のまわりを右往左往しながら、原点に近づいたり、離れたりしていているのではないかと思う。

ようは、やはり「他者といる技法」とは「人を理解する」ということに他ならない、という事なのだろう。そして「人を理解する」という言葉の範疇には「他者との違い」を容認する、という事も含まれるだろう。つまり、「他者といる技法」においては、自分は自らの座標の原点にいながら、自分とはちがう座標に原点を持つ他者、その違いを充分に認識した上でそれを容認する姿勢こそが最も重要なのではないだろうか。

以上