「現代スポーツとドーピング」

発表者:石川誠匡(01DA020P),高橋淳一(01DA093F),横山豪(01DA166B)

 

1.ドーピングとは何か?

「ドーピング」とは、公正でない意図をもって、人体に強い影響を及ぼす違反薬物を使用し、運動能力を高める不正行為の事を指す。しかし、すべての薬物が違反薬物というわけではなく、実際には以下のような薬物を使用した事を指す。

 A,競争心を高め、疲労感を抑える「興奮剤」 (カフェイン、エフェドリン等)

 B,苦痛を和らげる「麻薬製鎮痛剤」(モルヒネ等)

 C,筋肉増強目的の「男性ホルモン製剤」、「タンパク同化ステロイド」

 D,尿を増やし、減量・薬物排泄に効果的な「利尿剤」

 E,薬物の存在を隠す「隠蔽剤」

 F,成長及びタンパク同化作用を持つ「ペプチドホルモンとその同族体」(効果はCとほぼ同じ)

 G,手足の震えを和らげる「β遮断剤」

 H、タンパク分解を遅らせ、脂肪を燃焼する「β2遮断剤」

この中で、例えばカフェインは我々がよく飲むコーヒーやドリンク剤などに含まれており、エフェドリンも市販されている風邪薬にも含まれている。また、モルヒネも麻酔として医療目的で使用される事が多い。このことからドーピングは決してテレビの向こう側のアスリートのみの話ではなく、我々の身近にある問題であるといえる。

 

2.ドーピングが禁止される理由

近代に入りスポーツはより速く、より強くということを追求しそのための技術革新がなされてきた。いわばドーピングもその一つともいえるのだが、なぜドーピングだけが禁止されるのか。一般的に、ドーピングの禁止理由は三つある。

第一に、「スポーツのフェアプレー精神に反する」

薬物を使用する事は公正な競争を損ね、またスポーツの社会的価値を損ねる点。

第二に、「社会悪になる」

ドーピングで勝利を得ることができればルール違反を認める事になり、スポーツの価値がおとしめられる。また薬の乱用につながる恐れがある点。

第三に、選手の健康を害する

カッツ教授()のステロイドの精神面での影響の報告や、1980年モスクワ五輪競泳金メダリスト、パーパラ・クラウゼの奇形児出産など健康を著しく阻害する副作用がある点。

ではそうまでしてアスリートをドーピングに駆り立てるものとは何なのだろうか?

我々が立てた仮説は、勝利によって歴史に名を残すという名誉、さらにはそれによってもたらされる莫大な金が、もはやフェアであるべきであるというスポーツの倫理に勝ってしまっているからではないだろうか、と考えた。

 

3.ドーピングの歴史

 ここで、基礎知識としてドーピングの歴史について述べる。ドーピング(doping)という言葉は、南アフリカの先住民たちが、疲労回復や士気高揚のために用いたドープ(dope)からきている。本来は争いに勝ち、「生きるための手段」として登場したドーピングはやがてスポーツにも広がりを見せるようになってくる。古代ローマ時代には、二輪車競技の馬にアルコール発酵させたハチミツを与えたという記録が残っている。まだこの時点ではヒト以外での「勝つための手段」に過ぎなかった。その後、19世紀に入るまで科学の急激な進歩もなかったため、ヒトに対して勝敗を劇的に左右することはなかったドーピングだが、19世紀にはいると状況は一変する。科学技術が飛躍的に進歩し、ヒトの「勝つための手段」としてのドーピングが登場してくるようになってくる。1865年のアムステルダム運河水泳競技大会において、近代のスポーツ競技会で初めての使用記録が報告されて以来ドーピングは瞬く間に広がりをみせていった。1886年にはフランスで行われた自転車レースで、イギリス人選手が興奮剤トリメチルの過剰摂取により亡くなった。これが近代スポーツにおいて初めてのドーピングによる死者となった。その10年後に開かれた第1回近代オリンピックにおいて、スポーツが競技として確立されていく。それと同時にスポーツが「楽しむもの」から「競うもの」へと変貌を遂げ、ドーピングは広がりだす。さらにドーピングは、個人から国家へと広がる。1936年のベルリンオリンピックでは、ナチスドイツの政策により、オリンピックは国家掲揚の場と位置付けられ、競技スポーツの中にナショナリズムが持ち込まれ、ドーピングは国家に広がる。このころから、国ぐるみでの組織的ドーピングもみられはじめる。この近代ドーピングの初期の段階において多用されていたのは、カフェインなどの興奮剤であった。そして次にはアンフェタミンを代表とする覚醒アミン(中枢神経興奮薬)も使用されはじめる。1955年のツール・ド・フランス(自転車の長距離レース)では、アンフェタミンによる多数の違反例が報告された。そしてこの薬物は1970年までにかけ、あらゆるスポーツに広がっていく。このころからドーピングをする側と見破る側の、いたちごっこがはじまり現在に至っている。以上がドーピングの主な歴史である。

 

4.二つのドーピング

 亀山佳明によると、ドーピングにはディエゴ・マラドーナに代表される「浸透身体タイプ」とベン・ジョンソンに代表される「道具身体タイプ」がある。

 マラドーナは心身の鎮痛のためにコカインを使用した。彼はもともとサッカー選手として理想の体型ではなく、足と背骨に故障を抱えてプレーしており、ピークを過ぎてもファンの期待にこたえるためにコカインに手を染めたと言われている。ヨーロッパ・サッカーと異なり、南米サッカーは奴隷解放の黒人やインディオなどの社会的一体感を表現する文化装置であり、スポーツというよりいわば宗教や民俗音楽に共鳴する存在であった。マラドーナはサッカーをしている身体と自分の身体が境界線を失ほどサッカーに没頭する(浸透身体)ためにコカインを使用した。

 一方ベン・ジョンソンは当時の100Mのトップであったカール・ルイスに勝つため筋肉増強剤を使用した。このタイプは簡単に言うと、より速く、より強くなることの実現を求めるものである。勝利や世界記録はCM契約や報奨金など選手に多くの富をもたらすため、産業社会の要請と無関係とはいえないだろう。現代では社会全体が「より〜」という意識があり、「道具身体タイプ」のドーピングは、いわば「道具身体」を追求する近代社会の産物とも言えるのではないだろうか。

 「浸透身体タイプ」は、南米サッカーの本質という観点からみると追放不可能であるし、「浸透身体」を求めること自体が問題なのではない。一時的にでも薬物に頼り「浸透身体」を求めてしまうことに問題がある。

 

5.ドーピングを行ってしまう背景

 ドーピングを悪いことと知りつつ行ってしまう背景には、以下のようにまとめられる。

a.金銭問題

 ドーピングを行ってしまう大きな要因に1つが、選手が達成した結果に対する莫大な報酬である。日本は決して多いほうではないといえるが、バルセロナ五輪でインドネシア史上初の金メダルをもたらしたバトミントン選手には、10億ルピア(約6400万円)が贈与された。ほかの国々でも報奨金にとどまらず、年金、住居、贈り物などを報酬として選手に贈っている。また、記録や順位だけではなく、有名になればCMや取材など報奨金以外にも多くの金銭を得ることが可能である。

 発展途上国にはスポーツで成功するしか生計を立てられないというケースも多々あると思われるが、こうした報酬がドーピングを助長していることは明白であり、これをある程度制限すべきである。

 

b.記録への挑戦

 米オリンピック代表を対象とした調査では、驚くべき結果が得られている。

 

 質問:「あなたは次の2点を保障された上で、運動能力を飛躍的に向上させる禁止薬物を進められたとする。絶対に捕まらない。この先5年間、出場する全ての大会で勝利するが、その後副作用で死亡する。あなたはこの話にのりますか?」

 

 YESと答えた選手は半数以上だった。この質問には記録という言葉は出ないが、自分の身体を棄権にさらしても、選手にとって勝利や記録は魅力が大きいようである。このことから、いくら禁止薬物の危険性を説いても効果が望めないことがわかる。

 

c.組織的な不正

 最近の組織的なドーピングの例として、シドニーオリンピックのブルガリア重量挙げ選手団があげられる。この件で3名の失格者を出し、選手村の宿舎からは大量の注射針が発見されている。

 また、国家的にドーピングを行っていたケースも存在する。冷戦時代、東欧諸国では国威発揚のために国家的に行っていた。規模の大きさも問題であるが、さらに重要なことは、この行為が選手に知らされていなかった点である。旧東ドイツの水泳選手クリスチーネ・ゾマーは、筋肉増強剤をビタミン剤やカルシウム剤と偽ってあたえられており、その後事実を知り損害賠償を起こしている。

 近年組織的なドーピングは減少しているが、IOCスキャンダルのように揉み消されてしまうことも少なくない。また先ほど述べたように、組織的なドーピングにはスポーツの倫理の問題だけでなく、人権問題も無視できない状況である。

 

d.メディア

 テレビ・新聞にとって、スポーツは最大の売り物であり、スポーツ側から見ても、メディアは普及、振興、宣伝に役立つばかりか、ドル箱でもある。このことから、スポーツとメディアは相互扶助の関係にあるといえる。

 その状況自体はさほど問題はないように思われるが、実はさまざまな弊害が顕在化しつつある。行き過ぎた商業主義、拝金主義を背景に生じる不正や汚職などがそうである。IOCスキャンダルはその典型であり、先鋭化する勝利至上主義がドーピングを生む。

また、メディアの都合によるルール改正、協議日程変更もしばしば取り沙汰されるが、それらもメディアを媒介にスポーツがマネーと繋がったことに原因がある。とはいえ、スポーツとメディアを切り離すことは不可能であることは明確である。規制を設置・強化するなどの対策をねり、今一度スポーツに対するメディアのスタンスを問うべきである。

 

6.まとめ

私たちは今回、選手自身の視点からのドーピングというものを捉えるために体育会の大学生50人を対象にアンケート調査を行った。アスリートという点ではプロとは違うので一般の人々との結果の差が出るかはわからないがスポーツをしている人にとってのドーピングとはどのようなものなのかを知るために行った。その内容は以下の様な質問形式である。

1・ドーピングコントロールについてどう思うか?

A、いくら取り締まっても、やる者はやるから取り締まる必要は無い。

B、徹底的に取り締まるべきである。

2・ドーピング行為に科す現在の罰則についてどの様に考えるか? 

A、重い  B、軽い  C、妥当

3・自分の周りの人がドーピングをしていて競技で良い結果を出していたら自分もしてしまうか?

A、迷わず使う  B、迷うが使ってしまう  C、使わない

4・ドーピングは撲滅できると思うか?
A
、そう思う  B、そう思はない

 

1の結果から見てみると、Aの「いくら取り締まっても、やる者はやるから取り締まる必要は無い」が9人、Bの「徹底的に取り締まるべき」は41人となっている。全体的には徹底的に取り締まるべきだという意見が多数を占めていて、アスリート自身の約80%が、やはり公正を期すためのドーピングコントロールが必要であると考えているようだ。同じような質問において先行研究では、選手以外の人に関して言えば、ほぼ100%が徹底的に取り締まるべきという考えを持っている調査結果がでている。

2の質問に対しては、Aの「重いは」7人、Bの「軽い」は15人、Cの「妥当」は28人と妥当であるという意見が単独半数を超えており、全体から見れば、罰則について特に改善を求められるということは必要としないようだが、罰則が軽いと答える人も意外に15人と多く、1の質問と同様にドーピングに対する選手の考えは厳しいといえる。

3の質問では、Aの「迷わず使う」という項目に対し3人、Bの「迷うが使ってしまう」には9人、Cの「使わないは」38人と予想どおり80%近くの人が使わないといっているが、逆に結局ドーピング使用するという人は、50人中12人と24%の人が使ってしまうという結果になっている。

4の「ドーピングは撲滅できると思うか?」という質問では、Aの「そう思う」で15人、Bの「そう思はない」は35人となっており、全体では撲滅するのは難しいと考えているようだ。先行研究では選手でない人においてほぼ100%が撲滅は無理だと考えている。

この様に、今回私たちが採った体育会の選手のアンケートから考えてみると、ドーピングは、厳しく取り締まらなくてはいけないが、ドーピング自体はおそらく、なくなることはないといえるようだ。また、競技でドーピングをした人は妥当な罰を受けているが、もっと徹底的に検査し、スポーツ競技の中からドーピングというものをなくしていきたいと考えているようだ。アンケートの結果によると、選手と選手意外との間にはドーピングに対する意識の差があるようだ。

選手側としては一般の人よりドーピングについて自分に置き換えて考えるためか、基本的にドーピングについて厳しい反面、その心理については理解するところもあるようである。

 

結論 

 仮説において、倫理<勝利=金、名誉というものをたてたが、現在のスポーツ界にはこのような傾向があることは確かである。この傾向が強くなればなるほど、ドーピングに対する抵抗は少なくなっていき、いずれはスポーツという競技のあり方を変えてしまうといえる。

現在のスポーツにおけるドーピング問題は単にスポーツの範囲だけに拠るものではなく、勝つための1つの手段として存在している。ドーピングは、もともとの意味である生きる手段としてのものから始まり、勝つための手段、観衆を魅了するための手段としてスポーツ勝利至上主義の中へ入ってきている。スポーツからドーピングをなくすためには、現在のスポーツが勝利至上主義によるプレッシャー、金銭問題、世界記録への挑戦、国家への威信の背景を多分に含む状況において、オリンピックや世界選手権が国のトップレベルのスポーツ選手が、スポーツ本来の一定のルールの中で自分の持っている力をフェアに競い合うという競技者主体の場から、現代の資本主義経済の流れ(メディア、広告、人気による年俸アップ等)に取り込まれてしまっているという状況を打開しなければならない。

問題解決の方法には、ドーピング検査や倫理的なアプローチもあるが、検査技術には限界があり技術を向上させても、いたちごっこになる可能性が高い。また倫理的な観点からのアプローチにも人々の意識の差が存在し難しい。スポーツという一面だけから考えるのではなく、経済や環境などのあらゆる視点から考える必要がある。その上で、スポーツ関係者が公正な方法で、競技力の向上に努めスポーツの文化的価値、スポーツによる豊かな生活が獲得できることを理解してもらえるような努力をすることが重要である。

 

<参考文献>

亀山佳明、1999年「スポーツする身体とドーピング」 スポーツ文化を学ぶ人のために、井上俊・亀山佳明編、世界思想社94−112ページ

<参考HPアドレス>

http://geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/3221/kousuke.htm

http://www.bus.nihon-u.ac.jp/gakka/zemitantou/supo-tu/endok/rep2000/000529_1.r…