有名性-―創られた象徴としての富士山―- (亀山綾希子・虐師尚文)
1.テーマ
私たちのグループが有名性について考えたとき、「日本といえば」という問いに思い浮かんだのが富士山であった。富士山は日本最高峰(3776m)であり、浮世絵画家・葛飾北斎の「富嶽三十六景」を知らない人はいないだろう。「赤富士」など世界に知られる名作もあることから、富士山を国の象徴だと感じる日本人は多いのではないだろうか。実際、2001年にNHKが「21世紀に残したい日本の風景」を視聴者から募集したところ、総数約39万票の内、3万7千票を集めて一位に輝いたのが富士山である1)。
孤峰・富士山は、秀麗な容姿の成層・円錐火山である。万葉の昔から万人に仰ぎ親しまれ、多くの詩歌に詠まれ、また絵画にもよく描かれてきた。諏訪彰によれば、9世紀頃(平安初期)にはすでに霊山として信仰登山がかなり盛んになり、1149年(平安末期)には駿河の末代上人によって山頂に仏閣が立てられたという。近世(安土桃山〜江戸時代)にはおもに東日本の各地に富士講が開かれ、集団登山が年とともに盛んになり、その山麓の富士吉田(浅間神社の門前町)などは、信仰登山者の集合地として繁栄した。さらに明治以降、ことに戦後は一般登山者が増加したという(諏訪,1992)。このように、日本の歴史の古くから富士山は知られ、親しまれてきたのである。
2.仮説
「富士山は日本の象徴である」とはいうものの、そもそも象徴とは一体何なのだろうか。記号論でいうところの象徴とは「記号表現と支持対象の間に慣習的なつながりがあるだけで、ひとつの内包的に定義される部類をその記号内容として有するような記号」(シービオク,1985)である。それならば、日本の国土の一部にしか過ぎない富士山が、日本国の象徴となりえたのはなぜなのだろう。石田佐恵子によれば、視覚的表現における有名性の場合、「有名な」という形容詞が必要でないほど広く人々に知られていれば、それを見た人の大半はその意味、名前、場所を瞬時に連想することができるという(石田,1998)。富士山の場合、あの円錐形の山を見れば、確かにほとんどの人が富士山という名前と山梨・静岡という場所を思い浮かべることができるだろう。しかし同じく日本一の規模をもつ琵琶湖・信濃川の場合、富士山ほどはっきりした連想は浮かばないのではないだろうか。また、琵琶湖・信濃川でなく、なぜ富士山を国の象徴と思うのか、という疑問も浮かぶ。
これらの疑問から考えられるのは、「創られた象徴としての富士山」という仮説である。日本の幾多の景観の中で富士山が持つ特殊な象徴性は、富士山の有名性が意図的に創られたものだからなのではないだろうか。
3.検証
上記の仮説について、「記号論」と「伝統の創造」の視点から考えてみたい。
まず記号論とは、発信者によるコードに基づくメッセージの作成、経路を通してこれらのメッセージの伝達、受信者によるこれらのメッセージの解釈、ならびにその意味作用にかかわるものである。「日本の象徴としての富士山」というメッセージが広まり、誰からも認められるようになるには、1)日本という国家の成立、2)日本を外から見つめるまなざし、3)国民が何らかのメディアを通じて富士山のことを知っている、という条件が必要となる。この条件を満たすのは、日本が近代国家として歩みだした明治以降となる。
矢野恵二によれば、日本国民に富士山の象徴性を伝えたのは初等教科書であった(矢野,2002)。日本では1872年に学制が開始され、1886年から検定教科書制度により国家統制を始めている。就学率も1873年は28%ほどだったのが、1890年には49%、1902年には90%を超え、ここにメッセージを伝達する経路が整ったのである。
明治中期から富士山は総体としての日本、つまり日本の象徴と教えるようになり、『小学唱歌』では「あふぎみよ、ふじのたかねのいやたかく、ひいずるくにのそのすがた」と、「日出る国」と「秀出る国」とを掛詞にし、日本の卓越性、富士山の象徴性を歌っていた。教師用の教科書にも注意書きとして「愛国ノ志ヲ養フベシ」とされていた。またこの頃の教科書には富士登山を勧める記述も多くあったという。
昭和に入ると、教科書から富士登山に関する記述はほとんどなくなり、八紘一宇の思想統制のもと、神国化する日本にともない富士山も神の山となった。これも『小学唱歌』を例に取ると、「大昔から雲の上、雲を頂く富士の山。いく千万の国民の、心清めた神の山」というのがあり、これにも注として「富士山は(略)国民は等しく崇敬しておかぬところであり、まさに日本精神の権化として神格化されてゐる」とあった。また日本が台湾を占領したときには、日本の最高峰は「新高山」となったが、初等教科書の中でもそのことに触れた上で、しかし最も気高い山は富士山であるとしていた。
国が富士山を象徴とした教材を作ることで、以前からそれとなく富士山のことを知っていた児童はそれを了承し、富士山と教材は相互に正当化される。こうして教育という経路を通じ、近代日本政府が富士山の象徴性を確立したのである。
ここで記号論に戻って考えてみると、記号はその効果を保つために短い間隔での再コード化を必要としている。記号体系はどんどん変化する傾向があるため、未来の世代が理解しようと試みたときには不能になっていることがあるからである。そのため意図されたメッセージが効果を保つためには、比較的短い間隔で再コード化することを繰り返さなければならない。近代における国の象徴としての富士山は、学年や教科ごとに教科書で扱われることによって再コード化を繰り返し、その有名性・象徴性を保たってきたといえる。
日本の象徴としての富士山は、明治中期からの国定教科書に見られるように当時の日本政府の意図によってなされたものだが、メッセージを伝達した媒体として教科書のほかに「ところ富士」が考えられる。ところ富士は「地方富士」「ふるさと富士」などとも呼ばれ、富士山にあやかろうと“××富士”として名付けられている全国各地の山である。諏訪によれば、本物の富士山の可視範囲は、福島・富山・新潟・茨城・群馬・栃木・東京・神奈川・埼玉・千葉・長野・山梨・静岡・滋賀・三重・愛知・奈良・岐阜・和歌山であるが、ところ富士はというと、北海道から九州まで1都1府39県に散在し、まったく無縁らしいのは大阪・岐阜・徳島・宮崎・沖縄だけである(諏訪,1992)。もっとも、ところ富士はその性格上、大半は地元の限られた地域の人がそう呼んでいるだけで、全国的になじまれているわけではない。そのため、正確な数は分からないというのが実情であり、大阪や岐阜にも富士と呼ばれる山は存在するという報告もある2)。このところ富士を「伝統の創造」という視点を持って見てみると、埼玉県にある荒幡富士(標高119m)などはそのいい例である。荒幡富士保存会によれば、明治17年に戸数わずか100足らずの村民が、ばらばらだった人心を一つにしようと16年延べ1万人を動員して土を盛り、築きあげた人工の山が荒幡富士で、村内の神社を一社に合祀して山麓には浅間神社を建立し、住民の信仰の中心としたものである3)。しかし一方では、旧荒幡村には昔から浅間神社のほか、三島・氷川・神明・松尾の各社が奉られていたが、明治5年の社格制度で三島神社以下は無社格となったため、村内の統一と民心の安定をはかるため三島神社以下を浅間神社に合祀することとなり、それに伴って冨士講信仰のシンボル・富士塚を移転構築してできたものが荒幡富士であるという史述もある4)。ホブズボームの唱えた「伝統の創造」とは、伝統と見なされているものの多くは、政治的エリートが権力の掌握と正当化のために創った受け入れやすいレトリックに過ぎない、という主張であるが、この視点を借りれば、富士山の有名性が集団アイデンティティの座標として接合され、荒幡富士として作り上げられていった過程と見ることができる。
このように、メッセージの作成と伝達によって確立し、維持してきた富士山の正当性や有名性は、創られた伝統であると考えられないだろうか。矢野によれば、志賀重昴は著書『日本風景論』で、各地に散在している地名を冠した「ところ富士」を富士山の求心力の下に集結させ、国民が国家の一員であることの自覚を喚起したという(矢野,2002)。こうした日本人アイデンティティや共同体意識の啓蒙のために、富士山が日本の精神的支柱として位置付けられるようになったのである。平安期からすでに知られていた富士山の有名性は、正当性を持った伝統として新たに加工されることでより大きな力を発揮したのである。
4.結論
日本を象徴するものとしての富士山は、近代日本国家の成立に伴ってメッセージとして取り決められ、それ以降は慣習として繰り返された再コード化の中で定着してきた、歴史的・社会的産物である。「伝統の創造」とは、社会の変化に対応して既存の伝統を新たな状況下で新たな目的に利用するか、あるいは新たな目的のために古来の歴史的材料を用いて新しい伝統を創り出す行為を意味する。民族や社会が長い歴史を通じて培い、伝えてきた信仰・風習・制度・思想・学問・芸術などの伝統の多くは、実は最近になってなんらかの目的のために創られたものだという視点である。内集団の歴史的連続性の維持と促進のために、アイデンティティの再確認または再創造を図ることがあるが、この場合、自然に備わった原初的絆と考えられた民族の特徴は、歴史の諸段階で適合的として選択された「伝統的」象徴に過ぎない。そうした象徴が選択される理由は、集団の自立的安定感を維持強化するためには既知である伝統を利用するのが効果的だからである。伝統のイメージは歴史や連続性・同質性が軸となっているが、富士山も、そのもともとの歴史や有名性に加えて政府による権威付けがなされた、選択され創られた伝統であると考えられる。
しかし戦後から現代の日本では、教科書で富士山を扱う量は圧倒的に少なくなっている。現代はテレビで接する富士山や、お札に印刷されたもの、写真などと多様になり、人々が持つ富士山像もそれぞれだろう。北斎の絵を富士山像として心に描く人は現代でも多いだろうが、世界遺産登録のためのゴミ問題など、もはや富士山は工業化された日本の象徴とも言えるのは皮肉なことである。(総字数:4268字)
注 データの収集手続きについて
1) MSN“21世紀に残したい日本の風景”検索→「21世紀に残したい日本の風景」
(http://www.nhk.or.jp/yamagata/fukei.htm)
2) yahoo!“ふるさと富士”検索→「ふるさと富士(関西の富士)」→HOME「丹波霧の里」
(http://www.ne.jp/asahi/tanba/kirinosato/index.htm)
3)yahoo!“富士山”検索→「リレーde富士」→LINK「Mt.Fuji大図鑑」
(http://www.city.fuji.shizuoka.jp/m_fuji/)
4)所沢市教育委員会設置の案内板に拠る。
yahoo!「荒幡富士」検索→「埼玉の富士塚探訪記」
(http://www.asahi-net.or.jp/~WA7Y-INUE/tukasait.htm)
参考文献
石田佐恵子『有名性という文化装置』勁草書房,1985
岩波講座『日本文化の社会学』岩波書店,1996
講座現代社会のコミュニケーション『1基礎理論』東大出版会,1973
中野毅・飯田剛史・山中弘編『宗教とナショナリズム』世界思想社,1997
諏訪彰『富士山−その自然のすべて−』同文書院,1992
シービオク『自然と文化の記号論』勁草書房,1985
矢野恵三『富士山と日本人』青弓社,2002