著名な文化・宗教指導者、外交畑で責任ある立場の方、若々しい学生諸氏が、それぞれ、「21世紀はアフリカの世紀である」と発言しているのを聞いた。私もアフリカと付き合っているので、アフリカの可能性を考えた。

  現状を分析しよう。

   経済面から見て、アフリカ諸国の将来が有望だとは思えない。アジア諸国と比べ、20世紀後半にアフリカ諸国がその立場を向上させたとは言えない。

  また、政治的に希望があるとも思えない。官僚の腐敗はさまざまなレベルに及び、軍事政権、原理主義による統治、内戦、難民も見られる。文化・学術面ではどうか。ノーベル文学賞の受賞者も出たが、それは少数であったから話題になったとも言える。それよりもAIDSの蔓延によって社会全体への打撃が進んでいる。依然としてマラリヤ、コレラは多数の死者を出している。

  このように、現状を分析すれば、21世紀の主役になるような要素をアフリカに見つけ出す事は難しい。

  それでも「アフリカの世紀である」と発言するのは、意味がある。それは、発言し、周囲に知らせていく事が、実現の第一歩であり、原因となるからである。何事も流れに任せておくだけで、声をあげて原因を作らなければ、安易な方向に流れるだけである。将来への芽をつくって懸命に建設に励んだ場合だけ、それに見合った結果がみられるのである。

    「アフリカの世紀」と発言する人が、どの程度の責任感と視野で発言しているかはさまざまだ。自分が影響力を行使し責任を取るような立場の人、たとえば大統領や大使、もいる。たまたま旅行に来て地域に触れ、特定の人に共感して、「アフリカの世紀」と発言する人もいる。

  後者に対して、「それなら、他地域に同様な人はいないのか」「そんな特質ならば、アフリカ以外でも発見可能だ」と批判する事は容易だ。しかし、どんな責任感と視野で発言しているものであっても、私は貴重だと思う。個別の人間が実際にそう感じて発言し、行動する事が、たとえ狭い視野からの確信であっても、将来への芽につながるからだ。

   現状分析のうえでの要素がないのに希望を言うのは、まやかしで、煙に巻いているだけだ、精神主義的すぎる、との意見もあろう。しかし、逆に、現状分析は、結局は現状を追認するだけで将来を形成する目標とエネルギーに欠けているとも言えよう。

   非常に諦観すれば、「すべての地域がすべての可能性をもつ」と言える。最善から最悪までのスペクトラムを持っているはずだ。21世紀はアフリカの世紀となる可能性もあるし、ならない可能性もある。その時に、いかにも公平であるかのように、すべての可能性と現状の悲観的な分析を紹介するのは、私には物足りない。「将来はこうなる」と、積極的に発言し、芽を作っていく姿勢が大事だ。



   こうした立場からアフリカの希望を探せば、それは必ずしも経済、政治上の諸相に見つけられるのではない。私見では、希望は、1)歴史上の重荷と、2)多民族の集合にあると思われる。

   アフリカ大陸の人々は奴隷貿易と植民地支配に数百年のながきにわたって苦しめられてきた。また、独立後も東西対立の構造の中で一党独裁が続いたり、経済的には植民地支配の継続があったりした。これらの歴史は負の遺産であるが、将来へのばねになる可能性もある。

   「これだけの負の遺産があるのだから、その分、大きく21世紀の主役になっていく」との、気概が、多くのアフリカの人に共有されれば、大きな力が出るに違いない。この気概は「21世紀はアフリカの世紀である」と、より大きな声で発言することに直接的に役立つ。この発言こそが大事な事は、前述したとおりである。

   こうしてアフリカ人が目標を持って地域 (かならずしも国ではなく) 作りに努力していけば、他の地域の人は、それを尊敬し助力するのが当然となろう。間違っても他地域の価値観を押し付けたり、利用したりする対象とはならない。

  関連して言えば、日本人も広島・長崎をばねにもっと世界平和に力を出すべきだろう。そうしている人もいるが、多くは忘れるか、あるいはPC(ポリティカリ・コレクト)のレベルで差し障りなく行動している程度であろう。


    もう一つの希望とした多民族の集合は、実は、アフリカ地域だけの特徴ではない。しかし、相対的な差であるが、たとえばアジアの中国やインドのように飛びぬけて大きなプレゼンスを示す塊がアフリカにはない。もちろんアフリカ地域にも帝国、王国の興亡があり、アラブ商人、ハウサ商人が各地を結び、広域的な言葉や風習がある。これらも中国やインドの塊に比較すると小さい。

  アフリカ地域では、相対的に小さな塊が多数で構成していると理解される(ここで塊とは、かならずしも民族集団だけではなく、生業、居住形式、社会階層、その他のサブカルチャー集団を含んだ意味で使用している)。民族、居住形式、生業活動のうえでさまざまな塊が出来て、それぞれ交渉や融合をしている事で、当事者には広くて相対的な視野と行動様式が涵養される。このような相対的な視点、異なる価値観の人々と接触する智恵はますますこれから必要になるだろう。

   現在は、同性愛を当然のヴァリエーションと認める社会と犯罪とする社会、離婚を原則的に認めない社会と一夫多妻の社会、個人単位での競争を奨励する社会と認めない社会、妊娠中絶を認める社会とそうでない社会、が隣接して、あるいは入り組んで交渉している世界になっている。

  この中では充分に寛容で合理的な一般原理が背景として必要となるだろう。これについては、別稿で充分に考えなくてはならない。しかし、それだけでなく、日常の振る舞いの中ですでに多民族的、多塊的になっているアフリカ各地の人々の知恵も大事であろう。

   多塊である事は、上記のように内部に智恵を生むだけではない。多塊は、それ自体に多くの可能性を秘めているとも評価される。それらの離合集散の可能性も多様で、実際にも多様な様相を示している。1950年代になってから民族集団が形成されたり、近隣の民族集団から入って来て一つのクランとして定着した人々の集団があったり、植民地時代の労働者として大規模な移動があった後に、移動先に定住している集団があったりする。

  個人のレベルでもさまざまな移動と接触を繰り返している事は、隣のアフリカの人にたずねればすぐに分かる(関連しては、こんな人間模様もあります)


   塊を相対的に見ることに価値を置く、こうした論を進めれば、アフリカという地理的な単位も、実は相対的であることが分かる。

  アフリカという区分も、世界にあるさまざまなグループ、たとえば、産油国、クリケット実施国、核保有国、環太平洋諸国、フランス語圏、華僑の商業圏、などの一つとして相対的に見なくてはならない。この論では、煩雑なので、国、民族について確定したものとして取り扱っている。しかし、筆者はこれ等も相対的、便宜的なものとして考えている。したがって、アフリカと言う地理的単位を構成しているは、50数カ国の国だけではないのである。

    アフリカという区分を掲げた場合に、未来への芽が確実になればおおいに利用すべきである。もしこだわりすぎて弊害があれば、他の区分方法へシフトすればよい。実際にアフリカの地で生活する人が、満足、気概、希望、などに満たされて生活することが最終的に求められる。

 

    「21世紀はアフリカの世紀である」といった時に他の大陸をおとしめるものではない事は、読者も容易に想像しただろう。つまり、アフリカだけが他の大陸よりもあらゆる面ですぐれる、ことを目指してはいない。21世紀はアフリカが輝く世紀であるが、他の大陸も違った面で輝いていく世紀である事を、アフリカの人も望むだろう。

戻る


アフリカ案内   アフリカの未来