国際的商売

長距離運行のバスなどを使用して国際的な商売が行われている。「国際」と「商売」では連想する規模がちぐはぐであろう。しかし、おもに少年たちが自分で運ぶ事ができる程度の分量の荷物を持って、複数の国の間を移動して、価格差を利用して商売をしている。

たとえば、ザンビアの首都ルサカで衣類や布を購入してタンザニアに運び込んで売る、湾岸国のドバイで腕時計を購入し(ここには飛行機で行く)タンザニアを通過してルサカで売る、ジンバブウェでリンゴを購入してルサカで売る、などである。

それぞれの国を出るときは税金上の問題はないが、入国するときに関税を課せられたり、官吏に品物を巻き上げられたりする。関税を正規に支払う方法も、交渉してまけてもらう方法も、あるいは税関事務所を通らないように山や藪の中の道に逃げてしまう方法もある。それぞれ失敗の確率と、その場合に失われる金額をにらみ合わせて方針を決める。

このような商売には特別な者だけが従事しているのではない。以前に紹介したように(TOP→タンザニア→ニャキュウサ・ランド→ニャキュウサ・ランドを旅して(2)を参照)、キシイ人のマラウィまで入っての土器販売は、キシイ人にとってはごく普通の事である。



ニャキュウサ人とマラウィ

タンザニア側に住むニャキュウサ人と、国境を挟んですぐ南側に住むマラウィのンコンデ人は近縁である。言葉はよく通じるし、お互いに行き来している。マラウィ側にもニャキュウサ人の村が存在したり、両民族のダンスティームが互いの村を訪問しあったりするなど、交流は活発である。

たとえば、マラウィ側に40キロ入ったところに有名な呪術医がいる。彼の名声はマラウィとの国境から30キロ離れたタンザニアの村にも響いていて、わざわざ彼のもとを訪れる人がいる。タンザニアからの患者は、パスポートも、東アフリカ諸国だけで通用する臨時の許可証も持たず、マラウィに入ってしまう。もちろん出入国管理の事務所は通らず、国境の川を勝手に渡ってしまうのである。マラウィ北部はザンビアとも近く、ザンビアからも患者がやってくる。ここには患者たちのために多くの家が、マラウィ、タンザニア、ザンビアと国別に場所を分けて建てられている。

呪術医のところに行くだけでなく、商売のために国境を越えるニャキュウサ人も多い。清涼飲料水、ビール、トウモロコシ、コメ、衣類、自転車などが国境を挟んで流通している。

たとえば、マラウィ産の砂糖は、国境の川を越えてタンザニア側に運ばれている。マラウィ側からは国境のソングウェ川に近づく自動車道は、正規の国境事務所がある道だけで、他はひどい悪路か湿地である。マラウィ側ではピックアップ型のトラックに砂糖を積んで、川の手前数キロの地点まで悪路を行く。そこで自転車に積み替え、少年たちが最高180キロまでの砂糖の袋を自転車に乗せて川まで運ぶ。川を丸木舟で渡し、対岸で待つ大型、中型のトラックに積み替えるのである。あるいは個人でタンザニア側のマーケットまで運ぶ者もいる。

この砂糖の交易は、関税を払わないで、正式な国境事務所以外のところで行われているので、密貿易とも言える。しかし、マラウィでの包装のままタンザニア側のマーケットに並び、マラウィに近い地域での需要の多くを満たしている。また、運搬に従事している少年たちにも罪の意識はなく、まったくの日常的な仕事と考えられている。





砂糖を自転車に乗せて運ぶ少年。マラウィ側で。


ニャキュウサ人にとって、マラウィ北部は抵抗なく訪問できる場所であるが、それよりも遠方にも多数が出かけている。ごく近い時代として植民地時代以降から紹介しよう。

南部アフリカでイギリスの支配を受けた南アフリカ、ジンバブウェ、ザンビア、マラウィの中で、マラウィではあまり有望な鉱山は開発されなかった。そこで、マラウィからは他の地域の鉱山に労働者が送り込まれていった。タンザニアでも南西部からは労働者がアフリカ南部地域の鉱山に向かった。マラウィ北部の町、カロンガ付近に南アフリカの鉱山会社の事務所が設けられていた。タンザニア人が国境を越えてここまで来て、登録すると、あとは会社の手配で鉄道、のちには飛行機でヨハネスブルグ近くの金鉱山まで運ばれて、仕事をした。

また、タンザニアからザンビアの国内に入ったところに、ザンビアの銅鉱山の事務所があり、ここでも同様な受付をしていた。これらの就職の機会があったので、ニャキュウサ人で南ア、ザンビア、ジンバブウェで働き、現在は村に戻っている人が多い。

1961年のタンガニーカの独立後、反アパルトヘイトの立場から南アへの出稼ぎは規制されたが、ザンビアで働く者は多くいた。子供たちはザンビアで結婚し、彼らはニャキュウサ・ランドにはめったに帰ってこないような状態の家族もある。



道をゆく人

自動車での旅は機動的に進むことができるので魅力的である。また、窓の近くの人や土地をじっくりと眺めるためにいつでも止まる事ができる。村に入って、急に人通りが多くなる事がある。バナナやサトウキビ、あるいは何か大きな包みを頭に載せた女たちが道の両側に大勢歩いていると、きっとその周辺にマーケットがある。日曜日で、着飾った子供が多く歩いていると、教会を期待する。

日傘をさして道を歩く人を、1996年ころからマラウィで見かけるようになった。日本の日傘のように薄い色、薄い生地、小さ目の直径の傘、ではない。ビーチパラソルといえば大げさ過ぎるが、はっきりした色、ビニール製で大きなかさである。これを主に女性がさして村の道を歩いている。この光景は、1999年にはタンザニアの村でも見られるようになっていた。たしかに陽射しが強いときには、それを遮るものがぜひほしいと思うこともある。それが数年の間に広がることも十分にあることだ。

たとえば、1996年にはタンザニア内のマラウィまで40キロメートルの町(トゥクユ)ではマラウィ製のビールが流通していた。ところが1999年にはタンザニア―マラウィの国境のすぐそばだけにマラウィ製のビールは限定されてしまい、30キロ離れた所ではタンザニア製のビールだけが流通していた。ここ数年の間にタンザニア製のビールの種類が増え、品質も向上し、流通も円滑になったので、マラウィからわざわざ運んできたビールは、その販路を失ったのである。

トゥクユでは、1980年代にはヨーロッパや、南アフリカ製のビールが販売され、ごく一部の金持ちだけが購入していた事を思い出すと、変化のスピードに驚く。1980年代には、タンザニア製のビールは、ビンによって内容量が異なっていたので、並べてみて多く入っているものを選んで購入していたのだ。


雨季に旅をすると、少年たちが自転車の後ろにポリタンクをつけて走っている光景に出会う。数分に一台の割合でこれらの自転車を見る事もある。彼らはタケの酒をマーケットに運んでいるか、その帰り道なのである。タケの酒はタンザニアの中部では広く飲まれている。樹液を取るためのタケが栽培されており、朝晩、茎から樹液をとり、自然醗酵させる。白濁した飲み物で、乳酸飲料のようなさわやかさがある。飲みやすいので、「つい大量に飲むと足にきてしまい、立ち上がれない事がある」と聞く。

運転しながらでも酒用のタケを植えてある畑はよく目に付く。これらの畑からできる酒、多くの少年たちが運んでいる酒、は毎日消費されてしまうわけで、世の中には酒が好きな人が多い。自然醗酵のこの酒を缶詰にしようと努力がされて、一時は製品もできたが、最近はまったく目にする事ができない。技術上の問題か、あるいは缶のコストが高すぎたのであろう。私としては、土産として日本の友人に持ち帰る事ができないのが残念である。






風景を見る


人の様子とともに周りの風景も、季節によっても、年によっても大きく変わっている。アフリカでは四季というよりも乾季と雨季で季節を表現する。乾季には文字通り雨が降らない月日が続き、どちらかというと寒い。この季節は、雨によって道路が悪くなったり、橋が流されたりすることがないので、自動車で移動するには適している。

一方、雨季には畑が耕され、作物の芽が出てくる。また、林の木々も芽吹いてくる。遠くから、林と畑が混在する山腹を眺めると、モザイク模様が緑色の色調の差で示されている。こんな模様をどうとらえるかは人によりけりだが、私は非常に美しいと思う。

雨季の雨は、かならずしも日本の梅雨や秋雨のようにしっとりとは降らない。一〜二時間の間に、限定された場所に、激しく降る。おかげで電話線用の電柱が倒れたり、橋が流されたりする事もある。バナナの木などはよく倒れている。

雨季のはじめには、草葺きの家の内部に、雨がもれてくる事もある。しかし、乾季の間に乾燥した草が徐々に雨水を含んで、膨張して空間を埋め、しだいに雨漏りは少なくなってくる。私などは雨漏りがあると慌ててしまうが、土地の人々は、この事をよく知っているので、対処するにしてもゆっくりである。



人工物の変化

道路や橋などの土木建築物は、年を経るにしたがって、痛んだり補修されたりして変化が目立つ。ダル・エス・サラーム港からタンザニア内を通って内陸国のマラウィ、ザンビアに物資が運ばれており、また、ザンビアから銅が運び出されている。同様にザンビア、マラウィ、ジンバブウェはモザンビークや南アフリカの港も利用している。内陸国へ通じる道路と鉄道は国際的にも重要で、補修がされている。

これらの道路では十分にスピードを出す事ができるが、所々に穴があいていることがある。舗装した表層が層ごとゴッソリとはがれたようになっている。はがれた縁は、他の舗装面と段差を作っているので、スピードを出したままこの穴に突っ込んでしまうと衝撃が大きい。アスファルト舗装がはがされている事について、「薪、炭などの燃料を入手できない人々が燃料用に削り取ったのではないか」と新聞に記している人があった。しかし、舗装用に混合したアスファルトは燃料として使用できないので、これは誤りであろう。

ダル・エス・サラームから西へ、ある時は道路と平行しながら、ザンビアまでタンザニア―ザンビア鉄道(タザラ、Tanzania-Zambia Railway)が敷設されている。鉄道の橋は軍事上重要であり、もし破壊されたらそのダメージは大きい。1980年代まではタザラの主要な橋の側には軍隊のキャンプがあり、軍人が軽機関銃を抱えて監視していた。今日ではその影はまったくない。かえって、橋梁には清涼飲料水の宣伝が書きこまれ、非常に目立つ存在になっている。





また、1980年代に主要都市を結ぶ幹線道路上に何ヵ所もあった税金徴収のボックスも廃止されている。ここでは通行する車から、政府関係の車を除いて、税金を徴収するのである。外国ナンバーの車であれば、ドルで支払う事が要求される。一ヵ所では三ドル程度であるが、小銭を用意するのも面倒だし、おつりはないし、その金がきちんと国庫に入っているかどうかも不確実であった。現地の車でも、その場所を一日に何回か通過することもあり、この制度は不評であった。まもなく、この制度は廃止されたが、ボックスだけは半分壊れた状態で道の脇に立っている。




移動する者とチェックする者

私の十数年のアフリカ経験ではまだ変化していない事象もある。

道路上で出会うものとしては、マラウィ内での警察の検問がある。今まで示してきたように国境を越えての移動は活発であるが、タンザニアから入ってきた人々が無制限にマラウィ内に広がっていくわけではない。タンザニアからの道路が、マラウィ湖の西岸を120キロほど走り、内陸に向かう地点で検問がある。ここで許可証をあらため、所持していない者はさらに南下はできない。他の国境、つまりタンザニア―ザンビア、ザンビア―マラウィでも事情は似ている。もちろん国境での出入国と税関の管理を逃れて商売をしている人々も多い。

自動車で旅行している場合は、正式な事務手続きを経て国境を越える必要がある。タンザニアナンバーの自動車は、タンザニア国の財産とも考えられている。したがって、「むやみに国外に持ち出され、国外で売却されるようなことがあってはならない」と考えるタンザニアの役人がいる。車検証にあたるものをタンザニア内の役所に預け、かわりに自動車の「一時的な輸出許可証」をもらって出国しなくてはならない。

別の国に入るときにもいくつかの手続きが必要である。たとえば、保険はあらたな国ではあらたに加入しなければならない。当然、あらたに入国した国の通貨で支払う事が要求される。ところが、国境には換金するための機関がなく、銀行は50キロ先である、という事もある。しかし、あたりを見渡すと、少年たちがたむろしていて、換金をしている。彼らは旅行者の小額の金を換金する事で利益を得ているのである。さらに出入国の管理をして、パスポートをあらためる事務所が国境にない場合もある。国境を示すサインだけか、あるいは警察のチェックだけがあって、入国管理と税関はずっと国内に入った場所で行われる。



あてのない旅

国境を頻繁に越えているのは、商売で移動して者だけではない。たんにマーケットに出かけてぶらぶらする、ダンス大会に参加するなどの用事でも国境を越えて移動が見られる。伝統医として呪薬を調合して各地を動いている者もいる。私が住んでいるタンザニア内の村にも時々、南ア、マラウィなどから現れ、二週間程度滞在してどこかへ移動していってしまう。彼らの提供する薬は、当たり前だが、効果がある時もない時もある。

目的地、あるいは移動の目的がはっきりしていないような旅は、気晴らしに時々する事があっても、それが生活そのものになっているような状態は、現在では想像しにくい。と思っていたが、たまたま石川淳著『諸國騎人傳』を手にしたら、旅の俳人としてそこここに数週間ずつ居候して生きた人、都ゝ一(どどいつ)の芸人として江戸から北関東をさすらった人などの跡をたどっていた。ここで扱っていた時代は、江戸から明治で、そんなに昔ではない。こんな時にこんな暮らしがあったかと思いなおした。

明治時代(1868―1912年)は、いままで中心に話題にしてきたマラウィ北部、タンザニア南部の地域にイギリスとドイツの勢力が伸びてきた時代であった。すぐに第一次世界大戦になり、イギリス軍はマラウィ北部からタンザニア側に入っていく。また、インド洋岸からのアラブ商人の活動も前世紀から続いていた。アラブ商人たちは奴隷と象牙を求めてマラウィ北部に入ってきていた。奴隷は一九世紀末になると獲得するのが難しくなったが、象牙はそれよりもさらに希少であった。アラブ商人たちは自らがインド洋岸から連れてきた奴隷と引き換えにしても象牙を求めていた。もちろん彼らは機会があれば奴隷を獲得した。奴隷商人が捕らえた奴隷とともに写っている写真が、1905年にマラウィ北部のカロンガで撮影されている。

南部アフリカ――南アフリカ、ジンバブウェ、ザンビア、マラウィ、タンザニア――を人々は思いがけない広さと頻度で、商売、就業、遊びのために、あるいはあてもなく移動している。私もこの地域を巡りながら、この地域で奴隷商人が活動し、この鉱山働くために国外に出稼ぎに出た時代のことを想い返してみた。



written by TAROTAKO
『歴史と地理』523号に掲載したものに加筆させていただきました。


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アフリカ南部紀行――道路交通と人々の動き(2)――