現在マラウィの全世帯の10パーセント以下にしか電気が来ていない。

私の
3人の使用人(ハウスキーパー、夜警、庭師)はゾンバかその周辺に住んでいる。しかし、誰の家にも電気は来ていない。調理は、灯油のストーブか炭、照明は灯油かろうそくでおこなっている。自宅に電気をひくためのconnection fee30006000クワッチャ(45009000円)かかるが、これが庶民には大きな金額である。給料の3ヵ月分である。


  マラウィの電灯線は230ボルト50ヘルツで、220でも240でもなく、中途半端な感じを受けていた。しかし、電圧のコントロールが上手く出来ない事もあり、停電後に配電が復活したときには一時的に(300ではなく)400ボルト近くまで上がることが、年に複数回あるようだ。この高電圧に比べたら、220240の差などたいしたことではない。


  同様に、家庭内の電気配線、電気器具について、粗雑な点は多い。   ある時、フロアスタンドを引き寄せて、その下のソファに行儀悪く長くなって、新聞を読んでいた。しばらくして、スタンドの電球が、口金とガラスの接合部分で溶けて、熱い電球がへその上にポロリと落ちてきた。


  さいわいシャツは着ていたが、どう行動すべきか、めまぐるしく考えた。「手で払いのけようか」「あまりすばやくガラスを跳ね除けて、遠くにガラスが飛ぶと面倒だ」「ゆっくり摘まんだら火傷をするだろう」「体をずらしてうまく下に落ちないか」などと考えたし、いろいろ考えている自分を面白がっている自分もいた。そして、最終的に床に落とした。
 
このようにめまぐるしく考える瞬間は、他の時にもある。


レース中にスピンを起こしてコースをはずれていく車に乗っているレーサーもいろいろ考える。「ハンドルをこう切って、アクセルとブレーキをこう操作したらどうか」と、さまざまな可能性を探っているらしい。素人が文字通りお手上げになって、操作を放棄してしまうのとは大違いである。


また、秒読みに追われている棋士も、たった
60秒で、さまざまな着手の可能性を探っていると聞く。同時に窓外の虫の音も分かるし、自分が緊張して考えている様子も分かるという。


  このような心の働きの典型は「臨終のときに走馬灯のように一生が思い起こされる」時であろう。臨死体験の本を参照してもこのような経験は、かなり一般的に言えるようだ。   


さて、マラウィで電球がへその上に落ちてきたおかげで、臨死状態を反省してみる事も出来た。

 

  マラウィの20002001年の雨季の降水量は平年並みで、とくに旱魃の心配はいらない旨の発表があった。1028日からまとまって雨が降り始めた。男性的な雨が1030分続き、そのあとも一定量の雨が半日ほど続いた。このペースでの降雨が数日間続き、なるほど雨季がやって来たとの感を深くした。

実際には予報は外れ、2002年初頭の収穫は非常に悪かった(この段2002年8月記)

 

雨季は、電気関係の弱点が次々に露呈してくる時機だ。実際にそうなったが、煩瑣になるので、記さない。


故障があるたびに臨死体験まで考えていられないので、故障はないにこしたことはない。

 




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電球がへその上に落ちる