私が住むゾンバにもいくつかのガレージがある。その内の一つを紹介する。

  経営者と2人のメカニック、数人の見習いの少年が働いている。見習いの少年以外にもその友人や、メカニックの知人が遊びに来ていたりして、ガレージの従業員とそれ以外との区別がつきにくい。そこから50メートル離れたところには、タイヤのパンクを直す事を専門にしている少年たちのグループがいて、時にはガレージの者といっしょに働いたりするので、よけいにガレージの者がわかりにくい。

  経営者とメカニックについてだけ示そう。

  メカニックの一人はマラウィで生まれたが、片親はタンザニア人で、タンザニアでの生活が長い。タンザニアのダル・エス・サラームにある職業訓練学校で自動車の整備を学んだ。そこで国外からの奨学金を得て、ポーランドで8年間自動車整備を学ぶ機会を得た。彼の兄もやはりタンザニア暮らしが長くて、現在は同じくゾンバに暮らす。ゾンバはマラウィの南部でタンザニアには遠く、タンザニアの公用語であるスワヒリ語を話す人は、周囲には比較的少ない。彼ら兄弟と後述の経営者とは、私もスワヒリ語で雑談できるので、タンザニアに戻ったような気分がする。

  もう一人のメカニックは、マラウィの西部生まれで、軍隊に17年間勤めていた。ここで職業訓練学校へ派遣され、自動車整備の技術を身につけた。軍隊での勤務先はほとんどゾンバで、異動は少なかった。このガレージの3人の中では地理的な移動の経験がもっとも少ない。

  ケネー(仮名)という経営者は、父親はマラウィ人、母親はタンザニア人で、タンザニアの南部、リンディで生まれた。教育はタンザニアで受け、マラウィの銀行で一時働き、南アの放送局にも10年以上勤務した。現在は放送局も辞め、ゾンバでガレージとbottle store(簡単なバー)を経営している。妻はタンザニア北部生まれで、ダル・エス・サラームに妻子は暮らしている。ケネーは月に一度は南アに行き、酒や自動車の部品を仕入れ、やはり月に一度はダル・エス・サラームに妻子に会いに行っている。バスや飛行機と併用しているが、自家用車での旅行も多く、彼の車は4年間で15万キロメートルを走っている。一般にガレージは客が来るのを待っているだけの商売である。しかし、ケネーはゾンバにある役所や事業所を回って、「車の整備には自分のガレージを使うように」と営業活動をしている。

  ガレージの中心者3名の履歴を簡単に見たが、国境を越えて頻繁に移動している様子がうかがえる。これは特殊な例だとは思われない。


マラウィはイギリス植民地であったが、イギリス支配が及ぶ前、19世紀中ごろから終盤にかけては、現在の南アフリカからンゴニと呼ばれる人々が移動し、ザンビア、マラウィ、タンザニア、モザンビーク、ケニアにかけて一大帝国支配を実現していた。

  アフリカの国々のほとんどが植民地化される中、20世紀の前半は、これらの植民地内、あるいは植民地間での労働力移動は普通のことであった。

  中・南部アフリカでマラウィは鉱物資源に恵まれていない国である(最近はマラウィからモザンビークにかけてのボーキサイトの鉱山が話題になっているが)。ザンビアには銅、ボツワナにはダイヤモンド、ジンバブウェ・南アには金が産出した。資源がないマラウィはこれらの地域に労働力を提供する立場で、とくに男たちは出稼ぎを繰り返していた。マラウィ内には、隣接する国の鉱山の労働者あつめの事務所が開設され、労働者を汽車、バス、飛行機で鉱山まで輸送する体制が整っていた。

  20世紀後半になると各植民地は独立を果たしていくが、南アフリカはアパルトヘイト体制を強化し、それに反対するアフリカ諸国は南アフリカとの対決姿勢を鮮明にしていった。南アフリカとの正式の貿易も出稼ぎ・観光での人の移動も禁止された(実際には強力な経済力を持つ南アフリカからの物資は、その周辺の国々へもさまざまなルートで流れていった)。こんな中、マラウィは、正規の貿易ルートを維持しており、人々も南アへ出かけていた。

  つまり、人々が移動していた理由は時代によってそれぞれ異なるが、中・南部アフリカ全体を含んだ規模で人々は活発に移動し続けていたのである。他の国に出かけてそこで何年間も働き、結婚し、子供をそこで育てる事はけっして例外的な出来事ではないのである。

  そういえば、我が家のハウスキーパーのおじさんもタンザニア生まれであった。彼は父親がイギリス軍兵士で、1965年までタンザニアで勤務していた。ハウスキーパーはそこで育ったので、スワヒリ語も堪能である。しかし、私がタンザニアで最近話しているスワヒリ語とやや違っていると思うところもある。


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ガレージで見た人の移動