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マラウィ案内 都市 1  ゾンバ

  ゾンバはマラウィ第4の都市である。

  人口の上ではマラウィ南部のブランタイヤ(48万人、1998年)、首都である中部のリロングウェ(44万人)、北部の中心都市ムズズ(9万人)に続いてゾンバ(6万人)となる。

  ゾンバは1964年の独立から1975年まで首都であった。首都がリロングウェに移ったあとも1994年まで国会はここに置かれていた。

  ゾンバの標高は900メートル程度で、その北西にすぐにゾンバ高原が迫っている。この高原の標高は2000メートルを越える地点もあり、ゾンバからは山塊が迫って見える。





坂の上のGovernment Press。背後にゾンバ高原が迫っている。





同じく、ゾンバ高原を背景に建つ、旧国会議事堂。
現在(2001年)高等裁判所に転用する計画がある


  南部・東部アフリカを広く探検したリビングストンも1859年にはゾンバに到着し、ここにミッションの建設を計画した。しかし、当地は奴隷貿易に関する抗争が激しいのと、野生動物が多すぎるので断念した経緯がある。ゾンバ高原には今でも小型の羚羊は住んでいるらしい。

  現在のゾンバは1890年代から、やはりミッションの中心地として計画され、形成されていった。




  ゾンバの東にはチルワ湖が広がっている。この湖はお盆のように浅い湖で表面積は600平方キロメートルあるが、深さは4メートルほどしかない。本来は沼と表現すべき水深かもしれない。チルワ湖から流出する河川はなく、湖面の面積は年毎に大きく変化している。

  チルワ湖の北にあるマラウィ湖、マロンベ湖は大地溝帯にできた湖で、チルワ湖とはまったく構造が異なっている。

  チルワ湖は生産性が高く、多くの漁民を養っている。しかし、ここでも過剰な漁が問題になり、半年近くの禁漁期間が設定された。また、チルワ湖の東側はモザンビークになっているので、モザンビーク漁民との軋轢もある。



  ヨーロッパ人が探検や植民地支配、開拓などに訪れて、中心地とするところには共通性を感じる。つまり、小高く風光明媚なところだ。ここゾンバも後背地にゾンバ高原を持ち、高原からはチルワ湖、ムランジェ山(標高3002m、南部アフリカ最高峰)を望む事ができる。タンザニア南西部のニャキュウサ・ランド内での火口湖に臨んだ総督府。あるいは、タンザニア東部の高原、ルショトの総督府、などは共通して小高く風光明媚である。

  これは白人支配者や宣教師でなくても、「暑い」とされたアフリカに来たら、同様な選択をしたかもしれないが。



一部に残る植民地時代からの建物




  ゾンバは飲料水の不足に長年苦しんできた。2000年になってゾンバ高原にあるダムの容量を5倍にする工事が完成し、ずっと住みやすい街になった。このダムの近くではマスの養殖も行われている。南アフリカから卵を輸入しているという(ダム湖の写真)。

  マラウィ湖の南からチルワ湖にかけての地域はヤオ人が居住している。歴史的には、彼らは奴隷商人、あるいはその手先として仮借なく他の人々を攻めた。一方、アフリカ大陸南部から移動してきたンゴニ人もマラウィ中部から北部にかけて通過し、多くの人々を殺害していった。ゾンバもそれらと無関係ではなく、奴隷をめぐる抗争の大きさが、リビングストンのミッション計画に影響した事は前述した。

  今の静かなゾンバの様子からは、奴隷を巡る抗争も想像が難しい。

  もっと最近の事例としては、独立後、初代大統領のバンダ氏が独裁色を強めるにしたがって、ゾンバに1970年代に政治犯用の刑務所が設けられた。ここの独房に20年間繋がれたものもいるときいた。ここはすでに廃止され、1998年からはPrison Museumとして公開されている。






Prison Museum

  ゾンバでは活発な商活動や、工業生産は見られない。行政と大学の町として静かにゾンバ高原のふもとにたたずんでいる。ゾンバの一部には植民地時代の建物が現在でも残っており、その風情を見ることができる。


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