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 ダーバンはアフリカ大陸南部に位置し、インド洋に面した大都市である。海岸線には高層ホテルが並び、レジャー施設も多く、アメリカ合衆国のマイアミと比べる記述にも出会う。国際的な会議や学会も多数開かれる。ダーバンの町の中にいるだけでは、「アフリカ」に来た感じは少ないかもしれない。


 ダーバン周辺の地域からも、私たちに馴染みがある話題を発掘することができるので紹介したい。ダーバンにまつわる人物としては、大航海時代のポルトガル人航海者、インド人指導者のガンジー、マンデラと対抗したインカタ自由党のブテレジなどを挙げる事ができる。ここではガンジーについて触れよう。


 ダーバンの近郊にはサトウキビの農園が広がっており、ここでの労働者として19世紀後半にインドから多くの人びとがやってきた。それ以外にも多数のインド人がダーバン周辺で商業活動に携わっていた。イギリス留学を終えたガンジーは、一時インドに戻ったあと、南アフリカに活動の場所を求めた。インドに帰国した時期はあるものの、1893年から1914年の21年間にわたり南アフリカのインド人への差別をただす活動をしていた。


 映画『ガンジー』で描写された、ガンジーが1等車両からたたき出される場面は、彼がダーバンから首都のプレトリアへ移動する列車中のことであった。ダーバンは海岸に位置しているが、プレトリアとヨハネスブルグは、それから高原地帯に登っていく必要がある。列車から追い出されたガンジーはホームで一晩を過ごすが、高原の駅のホームはかなり寒かったと思う。当時はダーバンからプレトリアまで鉄道は開通しておらず、途中で馬車に乗り換える必要があった。馬車でも人種に起因した悶着を経験しつつガンジーはプレトリアに着いたのであった(『ガンジー自伝』中公文庫)。






1996年撮影。ダーバンの海岸。浜辺で遊ぶ人びとと自動車が多い様子がうかがえる。





 ガンジーは南アフリカ在住のインド系の人びとの尊厳のために大きな活動をした。ダーバン周辺にはインド系の人びと以上に虐げれた人びと、現地のズールー(Zulu)人、も多数が生活していたが、ガンジーは彼らをどう見ていたのであろうか。1899年からのボーア戦争では、オランダ系移民のボーア人と、イギリス軍+ズールー人が戦った。ガンジーはインド系の人びとを組織して、イギリス軍に属して負傷者の看護をした。また、のちにズールー人とイギリス軍が戦った時にもインド人野戦病院隊をつくって負傷したズールー人の看護をおこなった。自伝での記述では、ズールー人に無関心ではなく、同情を感じていた様子がうかがえる。


 現在でもダーバンには多くのインド系の市民が生活している。ズールー人も多く、彼らはダーバンの北から西の高原地帯にかけて生活し、ズールー文化を紹介する施設もダーバン周辺にある。ズールーはアルファベットの標準の音声コード(日本語のものでは、「朝日のア」「いろはのイ」と続く)でZの項で使われている。つまり、「ZといえばZulu」となっているが、日本人にはそれほど有名な民族集団ではないかもしれない。ズールー人は上記のボーア戦争などでイギリスとも深い関係があり、ヨーロッパにはよく知られているようだ。ちなみに音声コードは異説が多くあるが、Zの場合は、Zanzibar、Zebra、Zimbabweとアフリカ関係しか出てこないのは、筆者がアフリカ屋だからであろうか。



 筆者はダーバンの海岸沿いの高層中級ホテルに宿泊した事がある。ホテルの廊下に面した風呂の高窓から隣室に泥棒がはいって、スーツケースが壊される事件に遭遇した。どこでも同じであるが、安全には適切な注意を払って欲しい。



『図書館雑誌』2007年5月号に寄稿したものを小改稿しました。
図書館関係の国際学会がダーバンで開かれることにちなんで、ダーバン紹介の意味のエッセイです。





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ガンジーの足跡とズールー人
――ダーバンをめぐって――