タンザニアは南半球の国で、アフリカ大陸の東海岸に位置する。この国の東はインド洋に面し、北はケニアと、南はモザンビークと接している。タンザニアでは2800万人が94万平方キロメートルの国土に居住している。日本の1億2400万人、38万平方キロメートルに比べると、人口密度がずいぶん低く、余裕を感じるかもしれない。しかしこれは自然環境との関連で評価しなくてはいけない。タンザニアの中部から西部にかけての乾燥地帯では1平方キロメートルあたり1人にも達しない人口密度である。一方、雨に恵まれ多くの人々が居住している豊かな地域もある。タンザニア南西部のニャキュウサ・ランド(図参照)はその内の一つで、年間2500ミリの雨が降り、1平方キロメートルあたり100〜150人が居住している。人が居住する以前は森林地帯であったが、今は畑としてほとんどが切り開かれている。一年生の作物の畑は、季節によって地肌が見える事もある。しかし、多年生の作物(バナナ、コーヒー、カカオ、マンゴーなど)の畑はいつでも緑色が濃く、安心感を与えている。

アフリカ大陸は広く、「砂漠、ジャングルなどの一様な景観がずっと続く」とのイメージが作られている。「ニャキュウサ・ランドは豊かである」ここで強調すると、一様に豊かな環境がずっと続くように思われかねない。ここではニャキュウサ・ランド内の様々な差異の一部を紹介し、その多様性を伝えたい。



中心の町、トゥクユ

ニャキュウサ・ランドの中心地の一つは、標高1480メートルの高原にあるトゥクユである。この町に近づく山中の道は、最近になってきれいに舗装され、ドライブは快適である。大きな土木工事はしないで、地形に沿って道路を開いているので、傾斜はおおきい。トゥクユへの道は、実はそのまま隣国のマラウィに通じており、マラウィへ行く大型のトレイラーも通行している。大型車だけでなく普通車でもあえぎながら登るほどの急傾斜の場所もある。急な下り坂では、「飛行場」とあだながついている場所がある。その名のとおり、ここでは勢いあまった自動車が道路から空中に飛びだし崖下に残骸をさらしている。

この道は、いわゆるバイパスではなく、村の中心部を通る。定期市が開かれる日には、バナナやサトウキビを頭にのせて運ぶ女性が道にあふれる。大型トレイラーも速度を極端に落として通行する様が見られる。サトウキビや薪のように長いものを頭に載せた女性は、体の向きを変えるのが非常にゆっくりなので、自動車で横を通りぬける時には注意が必要だ。村の中を通ると、人々の顔や道路際の売り物を見る事ができて楽しい。タンザニアに比べて、ザンビア、ジンバブウェでは、幹線道路は必ずしも村の中を通過していないので、ドライブの楽しみはやや少ない。

トゥクユを遠望する地点まで来た。遠目には白い建物が森のなかに見え、なかなか美しい。タンザニアの行政組織は、大きいほうから、Nation―Region―District―Division―Word―Village―Kitongoji(スワヒリ語)となっている。ニャキュウサ・ランドは3つのDistrictにまたがっており、トゥクユはその一つのDistrictの中心地である。ここではDistrictの役所以外にガソリンスタンド、常設のマーケット、銀行、郵便局、などがある。

ほとんどの村には一週間に一度開催される定期市があるが、トゥクユのマーケットは常設であるので、肉、卵、穀物がいつでも入手できる。トウモロコシを粉にひいてウガリ(トウモロコシの粉を熱湯で練ったもの。固めのそばがきに似ている)用にする製粉所もマーケットに併設されている。これはモーターを使用しているので、ディーゼルエンジンに比べて取り扱いは簡単であるが、停電するとどうにもならない。電気の復旧を待って女性たちが半日も列をつくっていることがある。製粉するための料金は不要で、製粉の前段階ででる穀物の殻が製粉所に残り、これがブタのえさとして利用されているのである。

District内の郵便物は、すべてここの郵便局の私書箱に置かれる。ここから30〜40キロも離れたルーテル教会系の大きな病院などの私書箱もここに設けられており、教会の運転手が毎日覗きに来ているようだ。私は、村の小学校の私書箱を使用している。ほとんどの村の住民も同様である。小学校の先生がトゥクユに出て来た時に私書箱が点検されるが、2〜3週間も点検されない事もある。私は、急ぎの手紙を待っている時には私書箱の鍵なしで、裏から覗いて自分あての郵便物を回収している。これは外国人の特権ではなく、現地の人もそうしている。一応、私書箱の後側にある仕分け室のドアには「関係者以外立ち入り禁止」と貼ってあるが。

トゥクユにはレストランもある。レストランはスワヒリ語でホテリと称する。この名称のほうが取り澄ました感じがなく、トゥクユの食事処を良くあらわしている。メニューは、おかずとして、鶏肉をグリルしたものか煮たもの、牛肉を煮たもの、インゲン豆を煮たものがあり、それぞれ、飯かウガリで食べる。村に住みこんでしまうと、実際にトゥクユのホテリで食事できるのは一月に一回もない。しかし、この時は、役人や商用のドライバーがあちこち動いている様を眺めながら食事ができ、楽しむことができる。

工業製品のビールもここではかならず手に入る。その他、郵便切手や灯油を購入し、ドルを換金してタンザニア・シリングスを入手するなど、トゥクユではいろいろな用事を済ませることができる。本来はここの郵便局から日本へも電話をかけることができるはずである。しかし、ここの国際電話はいつも不調で、成功した事はない。


石の橋、神の壺


石の橋(あるいは、神の橋)を横から眺めたところ。
同じ橋を上から眺めた写真は、別項で紹介している。



Cultural Officerという役職名を持つ役人と付き合う事が多い。彼は、文化活動一般の担当で、スポーツも含まれる。それぞれのDistrict内の小学校や青年たちのサッカー大会をアレンジし、選抜ティームのユニフォームやスポンサーの手当てをすることもCultural Officerの仕事になっている。また、独立記念日、農民の日などの祝日や中央政府の大物政治家がきた時にDistrict内のダンスティームを集めてアトラクションを企画する、あるいは、本年から始まったテレビ放送のDistrict内での再配信のアレンジをする、などの仕事が与えられている。

タンザニアでのラジオ放送は活発で、スワヒリ語の普及に大いに役立った。村には電気が来ていなくても、バッテリー使用のラジオを持った者は何人かいる。彼らが、全国のニュース、あるいは中心都市のダル・エス・サラームで客死したニャキュウサ人の葬儀の日程などを聞いている。政治家の演説も面白がって聞いている。日本の阪神淡路の大震災も村の友人たちは知っていて、私の安否を気遣っていてくれた。このように有効に働いているラジオ放送に比べて、タンザニアのテレビ放送は近隣諸国より著しく遅れていた。インド洋に浮かぶザンジバル島を除けば、中心都市のダル・エス・サラームでも、テレビ放映は1990年代の前半に始まったにすぎない。今回始まったトゥクユでのテレビ放映も、出力はわずか5ワットで、送信アンテナを直接見渡せる数キロメートルの範囲しか視聴できない。衛星放送を受信して、デコードして、UHFに変調して再発信しているだけである。衛星放送のどのチャンネルを何時から視聴するかの点で、Districtの役人の判断が働く。ニュースは英語で、映画はインド映画を利用している事が多い。

このCultural OfficerとDistrict内の「石の橋」と「神の壺」を訪ねた。石の橋はニャキュウサ・ランド西部のKiwira川にかかる石の橋で、写真のとおり、岩が川筋にかかった橋になっており、この下を川が流れている。この橋の脇に軍隊の幹部の宿舎が設けられている。軍隊と聞いて、あまり安心できない気分で近づいていった。しかし、ここには昼間は将校の夫人と子供たちがいるだけで、庭の片隅の木陰で幼稚園のようなものが開かれていた。私たちは、のどかに遊ぶ彼らに挨拶しつつ、石の橋まで行ってきた。

神の壺は軍隊の駐屯場を通り抜けないと見学できない。ここでは、やむを得ず、駐屯場の副責任者に面会して、しばらく雑談してから、見学を許可してもらった。神の壺は川の水がいったん地下に入り、集中して岩の割れ目から吹き上げてくるものであった。水が吹き上げるすぐそばは、足が滑りそうで、近寄る事ができなかった。しかし、近所の青年が「そこまで行くから写真を撮れ」と言い寄ってきた。もちろん彼はチップが目的で、私もそれに応えた。

written by TAROTAKO
『歴史と地理』521号に掲載したものに加筆させていただきました。

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タンザニア南西部、ニャキュウサ・ランドを旅して(1)