私の村

私はニャキュウサ・ランドを訪れると、いつも決まった村で、ある家族のところに居候して生活している。ここでは、未舗装の道路からさらに分かれた幅二メートルほどの道路に沿って家が建っている。それぞれの家は回りに畑を持ち、バナナ、マンゴー、コーヒー、などの陰から、草葺き、土の壁の家が見える。トウモロコシ、マメ、イネの畑は家から離れた場所にあることが多い。村の中の道は適当な木陰になっていて、農作業、水くみ、酒買い、散歩などの用で歩いている人々がちらほら見える。

この村は、標高900メートルの地点にある。ニャキュウサ人は、前述のトゥクユ(標高1480メートル)より高く、標高2000メートル弱の地域にまで居住している。一方、ニャキュウサ・ランドの南端を区切っているニャサ湖の湖面の高さは標高475メートルで、低いほうはここまでニャキュウサ人は居住している。標高900メートルの村を選択したのは、その当時の事情があったのだが、今振り返ってみると良い選択であった。つまり、これより標高が低いとマラリアを媒介するハマダラ蚊が多くて、住むのに快適ではない。もちろん900メートルでもマラリアの発生はあるが、蚊に悩まされる頻度はずっと低い。また、標高1000メートルを超えると、南国の静岡育ちの私には寒すぎて、好ましくない。










村の中で。
髪を整えてもらう女性



私が住む村は、このような私の勝手な要望を満たした標高にあるが、さらに眺望も良いのである。ここには直径650メートルの火口湖があり、美しい水をたたえている。火口湖であるので、水深は岸から急に深くなる。ここにはヒトに寄生する原虫もおらず、土地の人々はここで水浴している。私も、時々はここで泳いだ。

住んで快適な場所、そして、できれば眺望がすぐれた場所を求める気持ちは、植民地時代の行政官も同様であったらしい。東アフリカの各地で、植民地時代の役所あとがこのような条件のところに設けられている例を目にする。そして、ニャキュウサ・ランドで私が住む村もすぐれた条件を持っているので、例に漏れずドイツ植民地時代の役所が設けられていた。その建物は火口湖を望む地点にあり、石造りの厚い壁を持っている。この建物は今でも健在で、屋根のトタン板だけを交換して、病院、裁判所、および役人の住居として使用されている。

火口湖はここだけではなく、District内に数カ所があるが、ここだけが美しくて、水浴にも適している。


まん丸の火口湖。

おや、水際に何かいますね。




なんと、湖に入ってすずんでいたイヌでした。




温泉

川筋のがけから湯が落ちている所や、温泉由来のソーダが析出しウシになめさせている所が村の近くに複数箇所ある。私はその内のひとつを訪ねた。これはMbaka川の川原である。近道を取るべく、山道を歩き、尾根を2つ越えた。1時間以上歩いてかなりの汗をかいた。最後に靴を脱いでMbaka川を渡り、反対側の川原に出た。この川原に温泉が出ている場所がある。温泉の湯と川からの水をちょうど良い割合で引き込むようなくぼみをつくると快適なバスタブになる。ここでしばらく温泉に入って汗を流した。

川を眺めると青年が投網で魚を取っている。せっかくの新鮮な魚も、必ずしも焼いて食べるのではない。煮たり、燻製にしたりして食べる。私は漁師町の静岡県由比町出身の祖母から魚の食べ方として「美味い順に、生、焼く、煮る、干す、である」と聞いていた。新鮮な川魚をどうしてわざわざ燻製にしてしまうのだろうか。

さて、快適なバスタブにも別れを告げて、帰宅する。ここでまた尾根を越えて十分に汗をかいてしまい、せっかく汗を流しても元の木阿弥である。ニャキュウサ人は私のように温泉を求めて何時間も歩いたりしない。手近な川や湖で水浴できれば十分なようである。
温泉については別項で紹介。

火山ガス

火山ガスとして出る二酸化炭素を地中にうがったパイプで採集し、圧縮し、液化する作業場がニャキュウサ・ランド内にある。ここで作られた二酸化炭素はタンクローリーでダル・エス・サラームに運ばれて、清涼飲料水の製造に使用される。最近では90キロメートル離れたRegionの中心地のムベヤにもコカコーラの大きな工場が南アフリカの資本でできた。こちらにも二酸化炭素が運ばれている可能性がある。1980年代には王冠が調達できなくてビールが製造できない事も、ビンによって容量が違っていた事も、水に詰め替えられて出荷した詐欺事件もあったが、現在は順調に生産できている。私が住む村はマラウィに近いので、マラウィ製のビール、ソフトドリンクも入手できる。こちらのほうがビンはきれいだ。

二酸化炭素収集の作業場は、とくに変哲もない小さな工場であるが、もし地盤から二酸化炭素が漏れ出せば、結果的に酸欠になるので、この付近へのむやみな立ち入りは禁じられている。


ニャサ湖あるいはマラウィ湖

これらの火口湖、温泉、二酸化炭素をつなぐものは火山活動であり、活発な地盤の活動である。大きなスケールでみればニャキュウサ・ランドは、大地溝帯(グレイト・リフトバレー、または東アフリカリフトバレー)の上に乗っている。大地溝帯とは東アフリカを南北に6400キロ、東西の幅は50〜60キロで走る大地の割れ目である。この割れ目に沿って水がたまる形で湖が発達した。東アフリカには南北に細長い湖が多いのはこのためである。いま紹介しているニャキュウサ・ランドの南に広がるニャサ湖もこのようにして形成された。東西の幅は最大で80キロメートルであるのに対して、南北は550キロメートルある。そして、ニャサ湖の東側には大地溝帯の東側のがけを形成しているリビングストン山脈がそびえている。

ニャサ湖とリビングストン山脈は雄大な景観を提供している。湖岸には波が押し寄せ、水浴する人々、漁をする船などが見える。波の様子は、私には穏やかな海と区別がつかない。この湖のずっと南、マラウィ国内では、カバが生育している。タンザニア国内でも、この湖に注ぐ川ではワニがいる所もある。私が訪れたところでは、残念ながらこの両者と出会う事はできない。


ニャサ湖と湖岸のカヌー。 1991年撮影

左にわずかにリビングストン山脈の裾野が見える。


リビングストン山脈の麓から、土器つくりをする人々が製品を丸木舟で運んできている。ニャキュウサ・ランド内のマーケットに着いて、その湖岸に土器を積み上げているのが見える。この人たちはキシイ人と呼ばれている。彼らの丸木舟は非常に大きくて、長さ20メートルもあり、20名以上が一度に乗り込む事ができる。彼らは土器をタンザニア内のニャキュウサ・ランドだけではなく、マラウィの北部にまで丸木舟で運んでいる(1 2)。彼らの船は十分に大きく、ニャサ湖を東西に40キロメートル横断して直接マラウィに達する事も可能である。ところが彼らは湖岸に沿って、遠回りをする経路で船を進めている。

ニャキュウサ・ランド内のニャサ湖岸のマーケットは、現在はのどかな雰囲気が漂っている。しかし、1980年代まではこの湖岸に海軍の船が停泊していた。小さいながら機関銃を備えた軍艦で、マラウィとの国境紛争に備えての配置であった。すなわち、タンザニア―マラウィの国境線が、タンザニアの主張によれば湖の中心部をとおり、マラウィの主張によればタンザニアの湖岸近くを通って湖面のほとんどはマラウィのものであった。ちなみに湖の名称もタンザニアではニャサ湖と称し、マラウィではマラウィ湖と称している。1970年代、1980年代にはそれぞれの大統領がお互いに非難しあうこともあったが、現在は沈静化している。

私が住む村から湖岸のマーケットまで、40キロ強の道のりを歩いて土器の購入に来る女性たちもいる。一泊二日をかけてマーケットに着き、購入した土器を頭にのせて、二泊三日をかけて村まで帰る。土器は口と底を重ねて連ね、側面に骨折したときの添木のように割ったタケを複数本添える。全体を布で包んで固め、横長にして頭にのせるのである。彼女たちは数人でグループを作って行動している。土器の運搬をおこなうトラックの数も増え、このような光景はしだいに見られなくなってきている。



ニャサ湖畔のマーケットに積み上げられた土器。




ジャガイモ

ニャキュウサ・ランドのニャキュウサ人はほとんどが農民である。彼らの農作物は、土地の高度に合わせて多様である。一番標高が高いところに住んでいる人々は、主作物としてジャガイモ、あるいはトウモロコシを栽培している。ジャガイモは20リットル入るバケツに入れて道路際に出し、通行する者に売っている。トラックが止まり、他地のマーケットで転売するために購入していくようだ。2000メートル付近の土地で栽培されているジャガイモは、900メートル付近の私の村では、比較的珍しい。居候している家へのお土産に、道路際で売られていれば、かならず購入するようにしている。車を止めると、子供たちやママさんがどこからかあらわれ、走ってくる。購入したいバケツをいくつか選び、大きな袋に入れてもらう。このとき、交渉すれば、いくらか余分にジャガイモを入れてくれる。大きな町のマーケットでは、いわゆる外国人価格がある。しかし、田舎の道筋ではぼられている心配はない。

標高が高い地域の換金作物はキャベツである。大きなキャベツができ、袋に詰めて他地のマーケットに売り出している。
標高が下がるにしたがって主作物はトウモロコシ、バナナ、イネと変化していく。もちろんいくつかの種類の作物を一家で同時に栽培しているので、ジャガイモを加えて四種類が交じり合いながら徐々に頻度を変えていくのである。





1998年撮影
路上で少年たちがジャガイモを売っている。
このあたりは標高2000メートルもある。



バナナ


バナナには少なくとも七種類の品種がある。村人にとって大きな価値があるのはマトーキとよばれるもので、実は長くて太い。これは調理して食べるバナナで、まだ青いうちに切り落とし、ナイフで皮をむく。これを焼く、煮る、などして食す。焼いたバナナは、ボソボソの焼き芋のようで、はじめはむせてしまった。しかし、これはこれでなかなか味わいがあるものだと分かってきた。標高900メートル前後に住む人にとって、バナナはもっともニャキュウサ人らしい食べものであると感じられている。コメ、キャッサバ、ジャガイモ、などを食べた後も、バナナを一口食べないと落ち着かないようである。

生食用のバナナもある。これは小型の実をつける。村内で食べる事もあるが、このバナナは換金用に価値がある。村には100キロ、あるいは400キロも離れた都市からバナナ買い付けのトラックがやってくる。村の中の幅2メートルほどの道に入り込んでバナナを買い付けている。また、村の女性がグループでトラックをチャーターして90キロほど離れた都市のマーケットにこのバナナを運び、販売している。女性たちは自分の畑からのバナナだけではトラックをいっぱいにできないので、近隣の畑のバナナを買い付けて、それを所定の場所に運んでおく。この運搬に近所の子供たちを動員し、小遣いを与えている。村の中で実際に金が動く機会をこのバナナは提供しているのである。

ちなみにこの生食用のバナナは酒にも加工される。ニャキュウサ・ランドではさまざまな種類の酒がある。シコクビエ、シコクビエとトウモロコシ、タケの樹液、などを原料とした酒が一般的であるが、最近になってバナナの酒も作られるようになった。バナナ酒は村でつくられるようになってからまだ10年たっていない。ここでは女性は小学校を卒業するころから酒つくりをはじめ、ほとんどが酒をつくる。つくらないのは、年配で体力がない、とくに熱心なイスラム教徒(ここではイスラム教徒は少ない上に、酒を飲む者も珍しくない)である、などの理由がある者だけである。しかし、バナナ酒のつくり手はごくわずかで、他地に滞在して学んできた数人だけである。地酒と一括される酒のなかにも新顔を認める事ができるのである。


バナナ畑



村の中で集められた生食用のバナナ。
しばらくするとトラックが集荷にやって来る。
子供は、駄賃をもらって各家からバナナを運ぶ事もある。

集荷のトラックは別項で紹介しています。



Regionの中心地のマーケットまで運ばれたバナナ。
村からやって来た女たちは、このバナナが売りきれるまで泊まり込んでいる。




イネ


イネは標高600メートル付近以上では陸稲が作られている。標高がこれより低く、湖近くの土地では平坦な土地が広がり、水稲がつくられている。水稲がつくられているところも、灌漑、排水の設備は整っていない。ここでは、雨季には、年によって水没してしまう所もある。雨季に備えてカヌーを軒下に備えている家もあるらしい。周辺が水没して、わずかな高みに人々が取り残される事態も時々は発生している。このように標高が低くなるにつれて、カカオ、カシューナッツが換金作物として栽培されるようになる。

標高が低い地域は、ハマダラ蚊が多い、洪水で水没する、と悪い条件が重なっている。また、湖面の標高と同じくらいの地域では、たとえば山地での伏流水の利用のように清潔な飲料水は得にくいと思われる。従来はこの予想どおりであったが、現在では低地に水道が引かれ、飲料水の面では標高600メートル以上の地域より条件が良くなった。自分の家のすぐ前に共同の水道の蛇口が設けられている家もある(各戸への水道はまだ設置されていない)。ニャキュウサ・ランドの山がちな地域では、人々は一般に尾根筋に沿って家を建てている。ここでは飲料水を得るために、谷筋まで毎日何回も往復しなければならない。尾根筋に沿って水道を通す計画は20年以上も前からあるが、だれも実現を信じていない。



多様な地域

ニャキュウサ・ランド内の地形上で特徴ある地点をいくつか示し、気候、作物、ひいては生活の仕方が高度によって異なることを紹介した。ニャキュウサ・ランド内では、少し移動すれば違った環境に身を置くことができる。人々は、自分の好み、病気に対しての転地療法、農地の獲得、などさまざまな理由で移動をしている。移動に関連した話題はHP内各所で展開したい。

マラウィで観察した人の移動


written by TAROTAKO
『歴史と地理』521号に掲載したものに加筆させていただきました。

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タンザニア南西部、ニャキュウサ・ランドを旅して(2)