○葬儀

1990年代の中頃まで、誰か亡くなると大勢の人が集まり、2〜3日間も遺体が安置されている家の周りで寝泊まりして知人の死を悼んだ。

家の周りと周辺のバナナ畑の中に男女別に集まり、全体で200名とも300名とも思われる人びとが集まっていた。ときどき思い出したように泣き叫んだりして悲しみを表している。これらの人びとには、トウモロコシと豆を煮たカンデという食料が提供される。調理のための水も薪も食料も、近所や親族が持参してくる。1980年代まではウシが解体されて提供されていたという。

1990年代の中頃から、「多数が長期間集まっているのは衛生上好ましくない」との政府の方針で、近しい親族以外の弔問者は泊まらないで帰るようになった。

1990年代には農村にもエイズに関する教育が浸透しつつあった。多人数が集まることとエイズ感染は直接的には関係ないが、エイズ関連情報は人びとに密集を避けさせる一つの要因になったかもしれない。

現在では、死亡の翌日くらいに遺体は埋葬される。

家の近くに深さ2メートル以上の長方形の穴を掘り、体は伸ばされ布に包まれた遺体を納める。穴は底で横に入り込み、遺体を納める空間をつくっている。ここにはござを敷いておく。遺体を納めて、土をかけるときにはイフムが弔いの言葉をかける。

死者が熱心なキリスト教徒の場合には、地元のキリスト教会の役職者がこの役を務める。

遺体を埋めた穴は、埋め戻される。そのままではブタが掘り返す事もあるので、バナナの幹をかぶせておく(写真


遺体を埋めた場所には目印のために石が置かれる。これはたんなる目印で、時にはつまずいて場所が変わったり、近親者が移転して10年もすれば何の石かも分からなくなる。まれには写真のように、長方形をコンクリートで作って墓所を示す事もある。

村人が葬儀に数日間泊まり込みで参加することはなくなったが、それでも葬儀は多くの人が集まるべき機会である。都市にでている親族、あるいは国外にいる親族もそれぞれ数日後から一年後くらいには駆けつける。

遠方から駆けつけた親族は、家に残された人びととしばらく嘆きあって時をすごす。この時も遺体を埋めた場所や目印の石にはとくに関心はない。死者を偲んで泣くことはよくあるが、目印の石に参っている様子はない。



○相続

財産を持っている男性が亡くなった場合、埋葬から1〜2年後に相続の儀礼をおこなう。

相続されるものは畑地、屋敷地、農具などの動産、そして未亡人や子どもである。この儀礼には親族と近所の一部の人だけが集まり、財産家の壮年男性が亡くなった場合でも100名程度の参加者数である。

多くの場合、一人の相続人がすべてのものを相続する。親族の代表者が、誰が何を相続するかアナウンスし、畑が相続される場合はその境界を確認することもある。その後、相続した者が屋敷地に入ることを歓迎して、近隣の者や親族が相続した者に挨拶をする。この時に挨拶のしるしに小銭を差し出す(写真1相続に関連した酒1)。その後は酒を囲んで歓談し、食事が供される。ウシを解体することもあり、ウシを用意するまでに1年もかかってしまう。これも1990年代から簡略化され、ウシを解体することはなくなりつつある。

寡婦救済のために、亡夫の兄弟が寡婦を第二夫人として妻にすることがある。これは一種の相続とも言える。

この相続には現在では寡婦の意志が反映される。相続の儀礼の場に欠席し、相続されるのを拒否するのである。その場合、実家に帰ることも、亡夫の家に暫定的に住み続けることも出来る。

実際には寡婦の年齢や、子どもたちの状況、亡夫の兄弟の居住地、などによって異なる。寡婦が若い場合は実家に帰り、将来の再婚を期すこともある。小さな子どもがいても連れ帰るが、婚資が支払われていれば、子どもはやがて夫側に戻る。子どもが大きくて母親を助けることが十分に出来る、亡夫の兄弟は遠方に居住しており相続しても頻繁に訪問できない、などの場合は寡婦は亡夫の兄弟と再婚せずに亡夫の家に住み続けることもある。

私は1980年代中頃から寡婦の相続が話題になる事例を3例を見た。1例は寡婦が形式的に相続された。実際にはあたらしい夫は遠方に住んでいるので寡婦の生活は今までと変わらない。1例は実質的に相続され、あたらしい夫と共に他地に移住した。もう1例は相続を拒否し小さな子を連れて実家に戻った。彼女はやがて亡夫の親族ではない他の者と再婚した。

ニャキュウサ・ランドではイスラム教徒は少数派である。私が住み込んだ村では、1パーセント以下である。イスラム教の世帯では相続の儀礼は、埋葬の数日後におこなってしまう。

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