史学会大会

2020年度立教大学史学会大会 特集・アフリカの若者の身体

質問に対する回答


発表① 中村香子(東洋大学)
女性器切除(FGM/C)をめぐる新たなアイデンティティーの誕生過程
―ケニアの牧畜社会を事例に―
発表② 橋本栄莉(立教大学)
「本物の男」と「複写男」のあいだで
―南スーダンの紛争、瘢痕とハイブリッドな「男らしさ」―
発表③ 村津蘭(東京外国語大学)
悪霊との情交
―西アフリカ、精霊マミワタの憑依におけるペンテコステ・カリスマ系教会の役割―
発表④ 萩原卓也(京都大学アフリカ地域研究資料センター)
肉体を基盤とした格差の形成と集団の成形
―自転車競技選手として生きようともがくケニアの若者を事例に―

発表①について


Q.1 カティカティとスナですが、どのようにしてFGM/Cの選択肢として登場したのか教えていただけますと幸いです。カティカティはスワヒリ語ということですが、国際社会の反対運動やケニア政府の法律などがあって、仕方なく妥協案としてボトムアップにつくられた方法なのでしょうか。
A.1 「カティカティ」は、もともとは、長年キャリアがある割礼師の女性が、国際NGOが主催したセミナーに参加したときに、通訳者として参加した現地語がわかる医師とのやりとりの中で導き出した妥協策だったそうです。しかし、彼女自身が経験をとおして「カティカティ」を出血量や治癒のはやさなどから好ましい切り方だと考えるようになったそうです。「スナ」は、別の民族によって行われている方法としてとらえられていました。現在でもこれを選択する人はごく限られた地域の限られた人たちのみですが、今後徐々に広がる可能性は大いにあると考えます。

Q.2 現地の若い女性たちの生き生きとした姿が感じられるご報告をありがとうございます。「カティカティ」は特に学校教育を受けた女性たちの間で好まれていると理解しましたが、彼女たちのアイデンティティ形成や主体的行動選択の中で、FGM/Cをめぐるグローバルな文脈とローカルな文脈はどのように位置付けられているのでしょうか?「カティカティ」は、学校教育というグローバルな「開発」があったからこそ登場したというふうに理解したのですが、彼女たちの新しいアイデンティティの中で、グローバルな言説はどのように取り入れられているのか、お教えいただければありがたいです。
A.2 20-30年前、学校教育を受ける女性がまだかなり少数派だった頃は、女性は学校教育を受けると、民族衣装を身につけず、ダンスにも参加せずに過ごしました。自分自身を民族のアイデンティティから切り離す必要性があったのです。しかし近年では、学校教育がごく一般的なものとして定着しはじめ、民族としての誇りを捨てずに、教育を受けることが可能になってきています。人びとは学校教育の普及という大きな変化のなかで、自文化のよいところと維持が難しいところを認識するようになってきています。維持が難しいものについては、どんどん消えています(その大きなものとして、未婚期の結婚に近い恋人関係があります)。グローバルな言説は確かに力をもっています。ときには抗いがたいほどの力がありますが、「グローバルな言説=よいもの」として受け入れているわけでは決してないと感じています。

発表②について


Q.3 発表の中、インタビューを受けた人が話した「いつか村に戻って戦闘に参加する」ということについて、戦闘に参加することは彼らにとっては人生の目的、男らしさの証明ということですか?あるいは口だけの目標という可能性でもあるのか。
A.3 少なくとも私が調査を行った2015-2018年において、都市の若者であっても、「コミュニティを守るために戦いに戻る」と表明することは彼らのアイデンティティにとっても、その場の社会関係を良好なものにするためにも重要であったと考えられます。実際に戦いに行くかはどうかはまた別の話で、そうは言っても行かない人も多いのではないかと思っています。しかし、わたしはそこでそのように「語られた」こと自体が重要であると考えます。

Q.4 施術の中で牛糞を使うといわれましたが、オス/メスの牛糞の区別はありますか?(儀式ではないのですが、ラオスでは質が違うと区別があります)。
A.4 施術者には会ったことがないので、その点はまだわかりません。牛糞を区別するという話はヌエルでは聞いたことがありませんが、興味深いですね。最近は施術の際にはウシの糞を使わず、「軽くさっと」浅い傷だけ入れるのが好まれるというのは聞いたことがあります。

発表③について


Q.5 マミワタは、女性にしか憑依しないのでしょうか?事例では女性だけでしたけれども。マミワタの図像は、一般に女性の格好をしていますが、ジェンダーを超越した存在なのだと改めて感じました。
A.5 ご質問ありがとうございました。事例でとりあげた教会でも、マミワタが男性に憑依することはあります。ただ数としては限られているようです。ジェンダーの偏りは様々な複合的要因の結果であると考えますが、マミワタが図表的には女性的に描かれる一方で、当該教会の憑依では男性として現れるのは興味深いことだと思います。

Q.6 憑依は科学的にはどのように説明されているのですか?統合失調症やせん妄におおける錯覚や幻覚と似ているのかなと思ったのですが、完全に心理的なものなのでしょうか。また、ベナン南部のこのコミュニティでは婚前交渉等は禁じられているのでしょうか?また、なぜ香水の匂いがしたのでしょうか、なにかキーとなるものなのですか?
A.6 憑依を「統合失調症」や「解離性症候群」のような精神疾患とみなす議論は多くなされてきましたが、西洋を中心に成立してきた「病」のカテゴリーを、ベナン南部の憑依にあてはめ論じることは、別の「精神疾患」にあたるカテゴリーを持つフィールドのコンテクストを等閑視することでもあり、問題を孕むと考えています。また、脳科学や認知科学から、変性意識などの状態については論じられています。ただそれらの説明だけでは、あるグループの人々に「マミワタ」という存在として現れ関係を築いていることについては説明できないのではないかと思っています。それが、今回の発表のようなアプローチにつながっています。
 ベナン南部のこのコミュニティで婚前交渉については禁じられているかというご質問ですが、属する宗教にもよりますが、一般的には特に禁じられていはいません。また、「香水の匂い」というのは、マミワタを象徴するもので祭壇に供えられたりもします。フィールドにおける「香水」は海外から新しく入ってきた工業製品であり、若者を中心に好まれているところに文化上の特質があると考えています。また、香水は料理やモノではなく、「ヒト」を感じさせる匂いであることが、憑依へと至る身体的記憶を形成する上で重要であると考えています。

発表④について


Q.7 賞金など、現金収入は得た選手から他の選手へ分配されないのでしょうか?現金でなくとも、メシや酒をおごるとかもないのだとすると、成功者への妬みが妖術騒ぎに発展しそうですが。
A.7 賞金などの現金収入が分配される事例は観察できませんでした。食事をおごるといった行為も、ごく限られた選手どうしでしか観察できませんでした。ただ、獲得した賞金等を元手に選手がスモールビジネス(商店や食堂の経営、バイクタクシーの貸し出し)を始める際は、ほかの選手と店の業種や立地が重複するのを避けるといったことが見受けられました。また、選手が経営する食堂に行って食べたり、選手が経営する商店で買い物をしたりするなど、そういった一種の「助け合い」は観察されました。
 成功者への妬みに関して、妖術騒ぎになった例は見たこと・聞いたことはありませんが、村の中に変な噂を流したり、陰で相当な悪口を言ったりなど、妬みは激しいです。コーチ側につくのか、(コーチと折が合わない)シニア選手側につくのか、というような、派閥争いも激しいです。

Q.8 選手の間での間身体的な肉体経験の共有の視点は面白いけれど、日本の中高生の体育会系部活動にも言えそうだと思って聞いていました。競輪集団の持続が可能になっていることの説明としては、「関わっていれば食っていけるから(生業として成り立っている)」で十分な説得的な気がしました。脱落者もなく、本当に全員が食っていけているのだとすると、逆にそれはなぜなのでしょうか(別に送った成員間の分配があるかないかとも関連するかもしれないですが)。
A.8 ご指摘の通り、間身体的な経験の共有の話は、日本の中高生の体育会系の部活動にも当てはまると思われます。たしかに、団体SSの持続可能性について、生業の観点からでも十分にも思えるのですが、彼らと一緒に共同生活をしていると、どうしてもそれだけでは納得できないような気になってしまいます。「なんでかわからないけど、ここに巻き取られてしまう」「このラウンドな世界からはそう簡単に逃れられない」と彼らが語るように、生業以外の視点から考えてみる必要もあると思い、今回のような発表の構成になりました。
 団体が持続している要因のひとつとして、この団体を維持している運営管理者(コーチ)の辛抱強さがあげられると思います。コーチ自身が収入を得るために団体SSを持続させている面ももちろんあるのですが、(こういう言い方をしてしまっては元も子もありませんが)本当に自転車が好きなのだと思います。今回の発表ではあまり触れることができませんでしたが、自転車に関わる、競技に関わる「楽しさ」という側面にも注目する必要があると感じています。これは、「なんでかよくわからないけどここにいる」という彼らの語りを理解するうえでも、役に立つと思います。
 もうひとつは、地域社会とのつながりです。ケニア国内には、ほかにも自転車競技の団体は多数存在しており、なかには外国人によって運営管理されている団体もあります。とくに外国人の運営管理する団体は、団体SSより給料もよく、国外で活躍する可能性にも開けています。実際、そのような団体から団体SSの選手に対し引き抜きの声などもかかるのですが、団体SSの彼らは「生まれ育った土地がいいから」と、このM村から離れようとしません。
 競技に関わる「楽しさ」(≒共同生活の「楽しさ」)と地域社会との関係を今後の課題として、引き続き取り組んでいきたいと思います。ご質問ありがとうございました。

ほか


Q.9 「若者」にとっての限られた(唯一の?)リソースとしての身体/肉体という捉え方を、報告者、企画者の皆さまがどのように考えられているか、うかがってみたい。
A.9
・ 様々な主体に「狙われる」リソースである身体・肉体とそれを「うまくかわす」身体・肉体の可能性というように私は考えています(発表者②)。
・ 牧畜民に特有なものなのか、マサイ・サンブル社会に特有なものなのかわかりませんが、身体に対する自意識がとても強く感じます。家畜と並んで重要な財であるビーズを用いた装飾を全身にまとい、時にはボディペインティングをするなど、美の表現の場として身体を用いますし、立ち姿、歩く姿も常に意識して作り上げています。この自意識は特に若者のうちに叩き上げられて生涯続きますが、特に男性は、結婚と同時に、全身の装飾をとりはずします。そして家畜という財の所有権をもつようになります。このことから、「リソースとしての身体」という捉え方は、マサイ・サンブル社会には特にマッチすると考えます(発表者①)。
・ 身体がリソース(資源)であるということは、その身体をもつ自分自身にとってもそうですが、誰かにとってその身体が有用であることを意味していると思います。地域社会や比較的小さな共同体のレベルを超えて、国家レベルもしくはグローバルな文脈において資源としての身体が(強い言葉で言えば)搾取されている状況が生まれています。ただ、もちろん、人びとは一方的に搾取されるだけでなく、さまざまに抵抗しています。そのようなせめぎあいのなかで「資源としての身体」を捉えることがまず重要だと思います。そのうえで、簡単に資源化されえないような身体の側面/領域に目を配ることが重要であると考えています。疲れる身体、痛む身体、思い通りにいかない身体の在り方は、そう簡単に資源化されない可能性を秘めていると思われます(もちろん、癒しやストレス解消といった行為は経済的な文脈で消費社会に取り込まれていますが)。そういった資源化されえないような身体の側面が、ある集団の成員や共同体の良くある状態(= well-being)を支える可能性を考えていきたいです(発表者④)

Q.10 ご報告の各所に「近代」と言う西洋に由来する時代区分を耳にしましたが、アフリカ文化人類学ではこの時代区分/概念に対する共通理解はあるのでしょうか。
A.10
・ 共通理解とまで言えるかわかりませんが、文化人類学で分析概念としてこの語を使うときには注意が必要であるとされています。すなわちこの語の使用によって近代/伝統という二項対立によって現象を眺め、その枠の中に還元してしまう危険性があるからです。一方で、フィールドの人々が語るローカルタームとしての「近代」——教育や貨幣経済など——は存在します。これらを問題化するために便宜的に「近代」という語を用いている人は多いのではないかと個人的には思います(発表者②)。
・ 自省の念を込めて書きます。共通理解はあるようでないと思います。歴史学や社会学にとって、「近代」はある意味、ハードで重いものであると思いますが、ときとして人類学者の多くは良い意味でも悪い意味でも「近代」をソフトに扱いすぎる面があると感じています。おそらくそれは、それぞれの調査地域や調査対象のインフォーマントが経験している「近代」が実に多様であることと、彼/彼女たちの「近代」との付き合い方(ときに重く、ときに軽やか)に人類学者が参与していること、に起因するのだと思っています。若造の私が言うのもなんですが、人類学者自身がもっと真正面から「近代」と向き合うことも重要だと思います(発表者④)。

Q.11 観察者のジェンダーや年齢によってインフォーマントから得られる情報にどのような差が出るのでしょうか。今回性的な問題に関わる報告がありましたので少し気になりました。観察者が日本人であることにより得られるメリット/デメリットはあるのでしょうか。ODAなど国際援助の文脈と学問との関係が気になりました。
A.11
・ 日本人であることについて、現地に日本が作って壊れたままの井戸がたくさんあり、そのクレームに対応するのに苦労はしました(発表者②)。
・ 性的な話に関しては、「男性が女性に/女性が男性に決して口しない」という規範が多く、夫婦の場合はそれぞれだと思いますが、一般的には同じ民族であるほうが聞き取り調査は難しいこともありそうです。外国人(日本人)であることで、例外処理をしてもらえて(すなわち、「人間」として認められていないということにもなります)聞き取りにくい話を聞かせてもらえる可能性はあります。その反面、簡単に騙されることも大いにあります。昨日今日会ったばかりの異人の興味本位の質問に性的なトピックに関してまじめに答える人は少ないと思います(発表者①)。
・ 競技スポーツに関わる人びとを調査している男性として、やはり女性のアスリートと共同生活をすることは難しく、また月経や妊娠に関する質問もしづらい傾向にあると思われます。もし男性の調査者が、そのような調査を実行しようとすると、困難かもしれません。
日本人であることのデメリット/メリットはあまりないように感じます。ただ、スポーツを通じた国際援助の文脈で考えると、発表中にも少し触れましたが、欧州からアフリカへの援助の数に比べ、アジアからアフリカへの援助は雀の涙です。そういった観点において、「日本人がスポーツに関する調査をアフリカでする」という事態は流布している型にはまっていないという点で、わりと自由に調査ができたり、聞き取りができたりする利点があるかもしれません(発表者④)。

Q.12 西洋的な身体管理法として、指紋・顔・DNAによる生体認証、体温計などの個人衛生器具やスマートウォッチの利用などがあると思います。アフリカの、特に教育を受けた若者たちは携帯電話・スマートフォンを積極的に受容したのではないかと思いますが、身体にかかわる西洋的な管理法・技術に対しては総じて否定的だったのでしょうか。そうだとすれば、なぜでしょうか。
A.12
・ 南スーダンではもちろんスマホは流通していますが、自分が経験した限りでは西洋的な身体管理法について積極的に受容しているとも、拒絶しているともいえない状況で、そもそも「健康」とその「管理」についての考え方も異なる気がしました。神性が介在する領域でもあるので。ストリートの子どもが体重計をもって回っていて、大人がそれにのって数値について何か言いあうという光景はよく見ました。それも健康を気にしてというよりも、自分の身体が数値で表されて比較可能になっているということ自体について面白がっているような印象を受けました。子どもにお金をやるためでもあるでしょうが(発表者②)。
・ 身体の管理、ということと少し異なりますが、「管理されること」自体に抵抗があるようです。国民全員がもっているIDに登録する生年月日や名前をわざと変えている人は少なくありません(発表者①)。
・ とくにスポーツは身体管理が問題になる領域です。選手が成長のためにどのようなデータを取るのか、また取ろうとするのか自体が、まさに身体の管理・統治につながるわけです。自転車競技においては、自転車にサイクルコンピュータなるものを装着し、走行データを取得し、それをもとに効率的なトレーニングを積むのが競技の世界では「常識」になっています。以前は心拍数を活用してトレーニングをしていましたが、現在ではリアルタイムで出力の単位をワットとして数値化することができます。運動生理学的に算出された、持久力を高めるのに最適な域をターゲットにして練習を積むことで、効果的な成長が得られるとされています。団体SSの彼らもそのことは承知していますが、走行データは走行距離くらいしか気にしません。それにはいくつか理由があります。まず、ハードな面として、細かなデータを活用するにはパソコンが必要になってくる点です。彼らはパソコンを持っていません。もちろんスマホでも代用可能ですが、わざわざ機器を接続して、自分のデータを確認して…、という、正直なところ面倒くさいというのもあると思います。「こっちのほう(出力とかいちいち計測しない、データに頼らない練習方法)が俺たちには合っている、そのほうが速くなれる」と彼らは語ります。「こんな数値に頼ったって、けっきょくは走らなければ意味がないんだから」と、パソコンや数字とにらみ合ったところでどれほど意味があるのか、と懐疑的な面もあるのだと思います(発表者④)。

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