一球一生

〜日本一を支えた「18」が投げた

今季2イニング〜


  喫茶店にて、記者に見せてくれた彼の左腕には手術痕が2つ。「立教大学・藤田凌司」は四年間、チームのため、己のために必死に闘っていた。


違和感と戦い始めた一日
違和感は、確実に藤田(営4=県岐阜商)の左肘に走った。ちょうど一年前。リーグ戦を控えた春季宮崎キャンプにて、藤田は打撃練習の投手役を務めていた。

「春は前年秋の悔しい成績を見返すため大事なシーズン。調子も良くて、仕上がりも良かった。でも、ピキって音がして。そこからは痛みとの戦い。痛いって思ったら痛くなっちゃうんで、気持ちで投げていました」。

3か月後、診断は左肘中骨骨折と告げられるわけであるが、エースは痛みを耐える決断をした。彼は、副将である。そして、チームのエースナンバー「18」を背負っていた。澤田(現オリックス=16年度卒)、田村(現埼玉西武=16年度卒)らのつけた番号をつけることの意味、責任を感じていた。違和感の走ったこの日も、最後の打者の最後の球まで投げきり、彼は実戦の場から姿を消した。

左が3年時の藤田。右が4年時唯一の公式戦登板となった際の藤田。右の写真では右肩が開き、無理をして投げていることが伝わってくる


エースの意地見せる一日
しかし、想いは人を動かす。チームが勝ち点をかけ戦った対慶大2回戦。故障中ながら、彼は神宮のマウンドの上にいた。肘に負担がかかるため、自身の調子のパロメータである「抜きながら投げる」カーブなど変化球を極力封印。リリース時の腕の位置も、痛いほど下がる彼のその日のリリースポイントは、本来の投法からはかけ離れていた。

それでも、打者のバットは空を切る。彼の優勝への想いを乗せた一辺倒な直球は、いつになく重く、速く捕手のミットに届いているのが伝わってきた。2回を投げ被安打1、3奪三振無失点で勝利投手に。「チームが勝てて、本当に良かった」。翌日には、腕が動かせないほどの張りが彼を襲い、そしてこれが18番を背負う彼の唯一の公式戦登板となった。

59年ぶりの日本一の瞬間、藤田はスタンドからその光景をただ見つめていた。続く秋季も、最終戦を除きベンチ外。野球の試合、ベンチ入りの人数は限られるものの、副将の一年としてはとても寂しいものであった。それでも、大学四年間を「あっという間でした」と晴れやかに振り返る藤田。その表情に、学生生活への後悔は微塵も感じなかった。


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