訳者による解説とあとがき

 リスク・ホメオスタシス理論ほど、多くの誤解を受けている心理学説は他にないだろう。誤解をされただけでなく、発表されると同時に手厳しく非難され、激しい攻撃を受けた。その誤解や攻撃はいまだに続いている。2006年の春に来日したアメリカの交通安全研究の某重鎮と話をしていた時に、ワイルドの名前を出したとたん、「彼はクレージーだ」と、吐き捨てるように断言したものである。
 「どんなに進歩した安全装置をクルマに装備しても、どんなに道路を改良しても、どんなに交通違反の取締りを強化しても、事故率は変わらない」というワイルドの主張は、安全技術の開発や交通安全運動に真剣に取り組んでいる人々の努力に、冷水を浴びせるものであると思える。自動車技術者や交通安全実践家と関係が深い交通心理学者からの評判も、悪い。直感的にも、クルマや道路を改良すれば安全になりそうだ。
 しかし、本書を読み通した読者にはもうお分かりと思うが、誤解のもとは、「事故率」と「安全」の定義なのである。リスク・ホメオスタシス理論が変わらないと予測する事故率とは、「リスクを伴う活動を一定時間継続したときに発生する総体としての事故の確率」である。たとえば、道路が広くなってクルマの速度が上がれば、目的地に早く到達する。A地点からB地点に向かうドライバーにとって、もし所要時間が半分に短縮され、時間あたりの事故率が変わらなければ、事故にあう確率は半分に低下する。これを「安全になった」と表現してもよいのではないか。確かに、ある一人のドライバーがAからBへ一回旅行することだけを考えればその通りである。しかし、リスク・ホメオスタシスの視点はもっとマクロなものである。A地点からB地点までと同じ時間でさらに遠方のC地点まで行くことができるとしたら、ドライバーはBに留まらずにCまで足を伸ばすのではないか。AとBを結ぶ道路を通るクルマの数は、一定時間あたり倍になるのではないか。結局、社会全体で見たら、道路改良の効果は移動量と輸送量の増加をもたらし、人口×時間あたりの事故率を低下させないだろうとワイルドは言う。ただし、人々の「リスク目標水準」が変わらない限りは、である。
 拡幅され直線化された道路では、従前どおりの速度と注意力で運転すれば時間あたりの事故率は下がるかもしれないが、ほとんどのドライバーは速度を上げるだろう。どのくらい速度を上げるかを決めるのがリスク目標水準である。安全装置装備後や道路改良後もリスク目標水準が変わらなければ、ドライバーの速度上昇と注意力低下は、時間あたりの事故リスクが従前と一致する値に落ち着くだろうとリスク・ホメオスタシス理論は予測する。リスク・ホメオスタシス理論は技術的安全対策の効果を否定してはいない。しかし、それが「安全」に役立つのか「効率」(あるいは生産性、快適性)に役立つのかは、人々の心が決めることだと主張する。
 リスク・ホメオスタシスの原理は交通事故以外のさまざまなリスクにも適用可能である。たとえば、本書の第5章に、重量物を持ち上げるときに作業員がつける腰痛予防ベルトの例が紹介されている。腹帯をしても作業が変わらなければ腰痛は減るが、多くの作業員は前より重いものを持ち上げようとし、結局、腰痛発生率は低下しない。ワイルドはこの腹帯を腰痛予防対策ではなく、「重量物持ち上げ促進対策」と呼ぶべきだと皮肉っている。
 現在、自動車メーカは、居眠り運転検知装置、赤外線暗視装置、車線逸脱警報装置、プリクラッシュ・ブレーキアシストなどさまざまな「安全」装置によって安全をセールスポイントにしたクルマで市場を獲得しようと、技術開発競争にしのぎを削っている。たとえば、赤外線暗視装置(ナイトビジョン、ナイトビュー)は暗い夜道で、歩行者や動物などを発見するのに役立つかもしれないが、(ドライバーのワークロードが過負荷になる懸念が仮に払拭されたとしても)、装置がないときと同様の速度と注意深さで運転しなければ、メーカが喧伝する安全性向上にはつながらないだろう。結局、道路拡幅と同じことなのである。新しい技術を「安全」に役立たせるか、「効率」に利用するかは、使う人の心にかかっている。
 ワイルドはこのような「安全」技術を無駄なこと、無益なこととは決して言っていない。しかし、安全技術が高まればそれを利用して、もっとスピードを出そう、もっと遠くに行こうとするのも人間である。人は、あえてリスクをおかす。ワイルドは、経済性や新しいことへの挑戦のために人がリスクをおかすことを賞賛しているくらいである。第4章に登場するミスターXの話を読み返して欲しい。
 「ミスターXが自分の命の価値を知っている、すなわち、彼がどの程度その命を危険にさらすかという程度を心得ていると仮定しよう。彼は受け入れる用意のある犠牲の見返りに、質においても量においても、最大限のモビリティ (移動性) を引き出そうとする。そんな彼にシートベルト、広い車線、高性能のブレーキ、その他なんでも運転が本質的に安全となる (すなわち行動が変わらなければ安全になる) ような装置をあたえたらどうだろう。ミスターXがこれらの対策に反応して、行動を変化させるか変化させないかは自由だ。もし行動を変えれば、質量共により高度な移動性を手に入れる。もし変えなければ、リスクと引き換えに得られるはずだった最大限の利益はもはや望めない。そんな風に行動するのは不合理で馬鹿げており、もし多くの人がこのように反応するとしたら、それこそ、新しいチャンスを生かす人間の能力に悲観的にならざるを得ない。」
 ワイルドはまた、リスクをできるだけ避けることを志向する社会が、必ずしもユートピアではないと言う。それは、保守主義、老人政治がはびこる、改革意欲も活力もない社会になるだろうと予想する。
 人間はリスクを最適化するよう行動する。最適なリスクとは、行動に成功したときに得られる利益と、失敗して事故を起こしたときに失われる損失がバランスするポイントである。そして、そのポイントが人々のリスク目標水準となる。ある社会の事故率は、その社会を構成する人々のリスク目標水準の総和によってのみ決定される。これがワイルドの主張である。
 「危険行動と事故リスクのバランス点を変える装置を安全装置と呼ぶのは偽善的である」とまでは書いていないが、そういう内容の主張をしている。だから偽善者たちから強い反感を買い、いまだに攻撃を受け続けるのだろう。
 最近わが国では「安全と効率のバランス」という言葉がよく使われる。公共交通機関などで事故が起きると、マスコミは効率を重視して安全を軽視していたと企業を批判するが、効率を無視しては企業経営が成り立たないし、運賃も上がってしまう。鉄道会社や航空会社は、安全と効率のバランスをとりながら経営することが求められているのである。
 しかし、安全と効率の最適バランスはどこにあるのだろう。それは社会が決めることだと私は思う。毎年1万人近い死者と100万人を超える負傷者を出し続ける自動車交通が禁止されないのは、クルマの利便性を社会が必要としているからではないのか。わが国の交通事故被害は、国民がクルマの利便性と引き換えに受け入れているリスク水準とバランスがとれているに違いない。
 「どの国民も、自分たちが享受しているモビリティの量や質と引き換えに、集団としての事故率を進んで受け入れているのである。」(第11章)
 交通事故を減らすには、国民がもっと安全な交通社会を求めること、そのためにはクルマの利便性を多少犠牲にしてもよいと考えることが必要である。そして、あえて批判を恐れずに言うならば、公共交通にのみ過度の安全性を求め、過重な安全投資を強いることは、必ずしも社会全体の交通リスクを低減することにつながらないかもしれないと考える視点も必要である。公共交通の経営を苦しめれば赤字路線からの撤退を余儀なくされ、よりリスクの高い自家用車による交通に頼らざるを得なくなる地域が増えるからである。

 さて、ワイルドは1994年に『ターゲット・リスク』を出版し、それを改訂した『ターゲット・リスク2――安全と健康の新しい心理学』を2001年に出した。さらに、2005年にブラジルで出版されたポルトガル語版のために、かなり大幅な加筆修正を行っている。この翻訳書のテキストには、『ターゲット・リスク2』と、ポルトガル語版のためにワイルドが執筆した英語原稿をあわせて用いた。したがって、『ターゲット・リスク2』にはない段落や新しい引用文献がもりこまれている。なお、「ターゲット・リスク」とは、リスク目標のことである。
 訳者は1993年に「リスク・ホメオスタシス説――論争史の解説と展望」と題する論文を『交通心理学研究』に発表して以来、ワイルド博士と交流を続けていたが、2004年の秋にカナダ・オンタリオ州シドナムで半隠居生活を送る博士を湖畔の別荘のような自宅に訪ねた。この5日間のシドナム滞在は忘れることができない思い出となった。たまたま奥さんのドーンが仕事の都合で別の町に単身赴任していたため、我々は男二人で毎日一緒に料理を作り、毎晩音楽を聴きながら遅くまでワインを酌み交わし、リスク・ホメオスタシス理論のこと、研究のこと、家族のこと、人生のこと、クラシック音楽のこと、ヨーロッパと日本の文化のこと、ブッシュ政権批判(ちょうどアメリカ大統領選挙の直前だった)など、尽きることのない話題に時間を忘れて語り明かしたものである。博士の教養と博識、ユーモア、リベラリズム、戦前生まれのヨーロッパ文化人の矜持と頑固さ。ほんとうに魅力的な人物だった。
 そんな博士の書いた本だから、本書にはリスク・ホメオスタシス理論に賛同できない人でも楽しめる文章や、見事な洞察があふれている。いくつか拾ってみよう。
 「専門家はともすれば、より深く極めるにつれて領域をどんどん狭めていき、ついにはよく知っているのはまったく瑣末なことだけ、ということになる。」(第3章)
 「私たちが歴史から学べるのは、私たちが歴史からほとんど何も学ばないということなのだろうか。」(第8章)
 「確かに速度ゼロならば、交通事故の危険もゼロだ。しかし、速度ゼロとは移動距離もゼロということである。だから、移動距離ゼロを望んでいるのでない限り、ドライバーは誰であれ、リスクにさらされることから得られる総利益が最大になるような移動量と運転方法を選ぶ。」(第9章)
 「初級ヴァイオリニストと初心者ドライバーがおかす失敗の数を減らすには、ゆっくりしたテンポで、一人で、あるいは初心者だけで一緒に演奏 (運転) することが許されなければならない。言い換えると、初心者ドライバーの事故は、もし、道路を初心者ドライバーだけが使えるようにすれば減らすことができると推察される。」(第10章)
 「現在の価値が高ければ、時は金なりで、先急ぎをし、安全装置や予防措置の利用を節約し、今すぐ欲望を満たそうとする。今現時点での充足のために、安全を犠牲にするだろう。反対に未来の価値が高ければ、将来もっと豊かになるために現在の楽しみを我慢し、明るい未来を守る努力をする。したがって、行動は慎重になり、浪費より貯蓄を選ぶだろう。」(第12章)
 最後に引用した文章は、「格差社会」と呼ばれる現在のわが国の世相を理解する助けとなるように思われる。犯罪、悪質な交通違反、幼児虐待の増加、マナーや社会的ルールを平気で無視する人の増加は、未来に希望を持てない人々が増えているからではないだろうか。犯罪や違反の取り締まり強化、罰則強化、監視カメラ設置、セキュリティー対策の技術よりも、未来に希望が持てる社会の実現こそが、抜本的な対策であろう。

2007年1月 芳賀 繁

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