2006年度前期 人間関係原論A レポート講評(提出者149名)


最終成績の発表に先立ち、今回のレポートに関して講評を行ないます。

主な点は昨年度と重なる部分が多いので、今年度について特に目立った点のみを簡潔に挙げます。

テーマとしては、それぞれに独自でさまざまな現象を取り上げているものが多く、独自性は高いものと見受けられました。中には振り込め詐欺やソーシャル・ネットワーキング・サービスなど,題材の重なるものがありましたが,個々の分析プロセスとしては多様なものがあったので,今回はその点は特に強く問いませんでした。
 
しかし、取り上げた出来事に関して詳細な部分まで考えていないものが目立ちました。また、一つ以上の記事を用いてはいけないとも書いてないわけですから、いろいろな記事を見比べて詳しく検討するような方法も考えられたはずですが、そのようなやり方はほとんど見られませんでした。コミュニケーションのプロセスを細かく追って分析しないと,特にこの授業で用いられているような分析方法は有効性を発揮し得ないと思われます。
 
また、ごく基本的なところで、指定された形式を守っていないものも目立ちました。使用する用語に下線を引かなかったり、二つ用語を使用するところを,一つしか使っていなかったりと、こういったミスは単純なだけに、守られていない場合はレポート課題そのものに対する軽率な扱い方として、減点要素としては重視しました。
 
形式に対する軽率さに加えて、あまりにも「手軽」に書かれた感じのレポートが目立ちました。テーマについて使用する言葉が対応していないことをはじめとして,考えられているテーマの関連性がうまく説明されていないものも多かったです。扱われているテーマがあまりにもかけ離れているため、他の科目に使用したレポートを「二重利用」している疑いも考えられるほどでした。
 
 最終評価としては、今年度から成績の比重がルールとして明確化されたため,平常点の比率を固定せざるを得ず,その結果レポートの評価が相対的に下がってしまう傾向が出てきました。この意味では、教員としては成績評価の表面的な統一化や厳正化は、かえって柔軟な成績評価のやり方を損なう弊害もあることを認識しました。
 
 ただし、今回の授業としては、レポート提出者が登録者の80%にものぼったのに対して、最終授業時の出席者が登録者の半数を割るなど,そもそも出席率がふだんから良くなかったため,総合的な評価は,当然ながら低いものとして出てくる場合の方が多いと考えられます。出席点の比重が低いことは,決して出席を軽視していることを意味するのではなく,むしろ出席を一定に評価しているものとして,今後は注意する必要があると思われます。
 
 講評としては以上です。

2006.8.9

是永 論

※おまけ

 今回いくつか重ねて出てきたテーマに、サッカーのワールド・カップ・ドイツ大会決勝におけるフランス・ジダン選手の「頭突き」を取り上げるものがありました。それぞれに考察は興味深かったのですが、少し惜しいところがあったので、こちらで答案のモデル的な意味も加えて考えてみたいと思います。

 まず、今回の事件で問題となったのは、ジダン選手の行為そのものをどのようにとらえるか、という部分があったように思います。一つの理解としては、頭突きの被害者であるマテラッツィ選手が、挑発ないしジダン選手への侮辱(差別)を行なったことに対する「報復」としての意味があります。もう一つは、ジダン選手自身も認めていたように、公衆の面前での「暴力」という意味があるでしょう。この点でこの行為の理解の仕方は、それぞれのアスペクトによって異なると考えられます。

 ただ、他のテーマのレポートの多くもそうでしたが、このままいくつものアスペクトがある、といっただけでは、考察不足で、問題になるのは、こういったアスペクトがどのようなコミュニケーションの過程と結びついているのか、という点です。

 実際に、さまざまなメディアでは、頭突きが発生する前の、マテラッツィ選手とジダン選手のやりとりを何度も繰り返し再生しながら、マテラッツィ選手がジダン選手に対して、「何かを話しかけている」という過程を明らかにしようとしていました。英国のBBCなどは、読唇術の専門家に解析をさせて、マテラッツィ選手が実際に何を言ったのかまでをも推測していましたが、実際マテラッツィ選手が正確にどういった言葉を発したのかは、当事者の証言以外には根拠はなく、真相としては確定していないわけです(当初は二人とも黙秘していました)。むしろ、本人どうしであっても、それぞれが行なったことを正確に位置づけることは、こういった係争場面では自分に不利なことは出せないこともあるため、期待する方が難しいこともあります。

 そこで、ここで考えるべきなのは、実際に個々の選手が何を言ったのかではなく、実際に(ひとりごとではなく、また背中を向けていた)ジダン選手に対して話しかけていたのかに始まり、結局、両選手のやりとりが、「挑発-報復」という一連のシークエンスで理解できるものとして位置づけられるか、ということになります。実際には、頭突きが起こる前から、相手へのマークに始まって、二人は何かを「言葉を交わしていた」という場面も記録されているので、これを単なるマテラッツィ選手からの一方的な挑発に対する「報復」とみなせるか、という問題も出てくるわけです。

 結局これは、ひどい挑発に対する「報復」とすれば、ジダン選手の行為は単なる暴力行為というアスペクトにはならず、その結果、ジダン選手への「同情」という理解も生じてきます。これに対して、あくまでお互いが「攻撃(-攻撃)」し合うシークエンスの一つとして、この頭突きが位置づけられたり、あるいは、あくまでジダン選手が、その前のマテラツィ選手の行動に関係なく突発的にこうした行為に踏み切ったとすれば、これは紛れもない「暴力」になるわけです。

 それには、この行為が、サッカーの試合中に行なわれたということも関係してきます。サッカーの試合中に肘で突付きあったり、体当たりをしたりするのは、「試合中」としては、相手の攻撃を防いだり、妨害したりする意味で自然なわけですが、たとえば電車の中など、単なる公衆の面前でこういう行為をすれば、これはただの「暴力」にしか映らなくなるでしょう。逆に試合中の妨害行為とすれば、暴言には暴言(というシークエンス)で返す必要があり、この方法が「頭突き」であったこと自体が問題になるわけです。

さらに、ある記事によれば、たとえ挑発であっても、「試合中」としてとらえれば、それはむしろ「無視すべきもの」となるわけで、「報復」をすること自体が適当でなく、逆にふだん試合でプレーしている選手たちは、報復というシークエンスを避け、そもそも挑発を「挑発」としないような相互行為上の方法を用いていることになります。まして、この試合は世界の衆目を集めるものであり、それだけにこういった行為は普段の試合に増して慎むべきものとなるはずです。

 この出来事に関しては、ひとまず協会の裁定で決着は着きましたが、実際の考え方もさまざまであり、これ以上考察を広げても一つのレポートを書いてしまうことになりますので、あくまで以上のような材料を提供するにとどめます。レポートとしては、こういった出来事の理解(アスペクト)が、実際にさまざまなシークエンスのあり方と結びつきながら成り立っていることが示されていれば、ひとまず条件を十分満たしているといえます。いずれにせよ、このようにシークエンスの問題で考えれば、おのずと記事を詳細に読み込んだり、複数の記事を比較することが必要となってくることは確かでしょう。

以上です。

立教大学 社会学部 是永論研究室