2009年度 社会学部講義(後期) 
言説分析 レポート講評(提出者86名)

 
 成績公表に際して、今回のレポートに関しての講評を示します。

 まず、最初に確認したいのは、「レポートについては科目ごとの課題にそったものを独自に作成・提出するものであり、同一文面のレポートを複数の科目レポートとしてそれぞれに提出するのは絶対にやめてほしい」ということです。


 実際としては、同じデータを使ったり文献を読んだりすることはあるので、どこまでが同一かというのは線引きが難しいのですが、レポートは試験である以上、こちらが要求した課題に対して最適な形式で論述が行なわれていること(簡単にいえば、質問にきちんと答えていること)が第一条件であるため、単に論述として一定の要件を満たしたレポートであっても、そこが抜けてしまっては、この科目としてのレポートの意味をなさないことになります。また、評価基準の独自性(オリジナリティ)という意味でも問題があることは言うまでもありません。

 以降は以上の理由を含めて、今回の提出レポートに対する個々の評価ポイントについて述べます。

1)分析対象の明確さ
 今回多くのレポートに見られた問題は、何を「ことば」として分析するのか、そもそもの前提がはっきりしない点でした。これは、データ形式にも反映しており、課題条件にはテレビ番組の場合、台詞などを書き起こすように指示していたのにも関わらず、たとえばドラマを分析する場合は「あらすじ」を示すだけで終わっていたり、ごく表面的な説明だけをして内容の分析に入っていたりすることで、結局、何を(ことばとして)分析したいのかがはっきりしないで終わっていたものが多かったように思います。そもそも、こういうストーリーのドラマやCMが作られました、それは女性の社会進出を反映してました、だけではどこが「言説分析」なのかがはっきりしません。そこで、従来はテーマ得点はあまり差をつけなかったのですが、今回は分析対象が明示されているかどうかで、比較的大きな差をつけて採点しました。


2)文献参照の弱さ
 もう一つ目立った点は、文献参照の弱さです。今回は「書名を示すこと」という条件で指示はしていたのですが、少し明示が足りなかったので、大きな減点とはしませんでしたが、基本的に講義プリントというのは「文献」ではありませんこちらの想定としては、課題に対してふさわしい文献を自らで見つけだしたり、あるいは授業で触れた部分を中心に読解を深めたりした結果をレポートに反映していただくことを想定しており、そのために一カ月近く前からレポート課題を示していることもありますし、授業に出れば誰にでも手に入るものをただ参考にされても、それは評価以前の問題で、授業をきっかけに自らで考えたことを述べてもらうためにレポートがあるのですから、当然、文献検索をはじめとする労力が使われていないものに高い評価を与えることはできません。文献参照の適切な基準については以前の講評で何度も示しているので、そちらをご参照ください


 3)理論的な視点の欠落
 2)の点と合わせて問題であったのは、文献を使うことで、どのように自分の考え方が深まったのか、ということに対して全く意識がないレポートが多かった点です。それ以前に、授業課題点が高い人のレポートでも、文献参照がきちんとなされていないものが多く、この点について受講者が怠慢であるというより、本来としてそういう考え欠落している印象(驚き)がありました。
 特に社会的背景を考えるといった場合、「社会的」なものとは何なのかにはじまり、そうしたことを考えるための社会学的な理論が必要で、それにしたがった考えを述べないと、ただ自分の想像から推測をするだけでは根拠に乏しく、恣意的な結論になることも多く見られました。
 こちらも文献参照に関することなので、それ以上のことは以前の講評を参照してもらいたいと思いますが、洞察力のポイントに関わるという話以前に、なんとなく文字を並べれば点数になるというゲームを、受講者のみなさんを含む大の大人が真面目な顔をしてやっているわけでないのですから、もう少し自分の考えを表現する場としての意味を考えていただきたく思います。

4)内容の「解説」と「分析」の違い
 今回、CMがテーマとしては多かったのですが、特にそれを中心に見られた問題として、ただ画面で行なわれていることを解説または解釈するだけで、それ以上の「分析」を行なわずに済ましていることがありました。特にCMなどは、誰がどう見ても分かりやすいものに作られているわけですから、それを「このCMはこうなってますね」、と解説されても、極端な話、「見ればわかるよ」で終わってしまいます。

 特に「分析」という場合、必要になってくるのは、ただ「こうなってます」ではなく、「なぜこれが使われ、それが使われないのか」、逆にいえば「なぜ(いま現在の表現は)そうなっているのか」(Why that now?)という視点です。これは「やりとり」で考える場合ももちろんそうなのですが、たとえば記号論でも、なぜこの設定と人物の組み合わせで、こうではいけないのか、という視点がないと、そもそもそうした組み合わせ(外延)が作り出す内包の部分が読み取れないように思われます。もちろん、CMに出ているタレントが現実に何をしているかといったことも読み取りには必要な情報なのですが、その点も同様にこのような関係の中で理解を示されないと、分析にはならないように思われます。逆に「やりとり」として何が行なわれているのかについて、ことばの特徴やふるまいなどの細かい点を周到に観察しながら、それに適切に対応したデータをもとに「深く」考察を進めたレポートに、高い評価を施しました。


 最後に、これはやや高望みかも知れませんが、今回講義の大半を相互行為つまり「やりとり」のテーマで構成したのにも関わらず、その点を引き取ってまさに「やりとり」としてレポートを書いたものがごく少数だったのは、講義内容を考えたものとしてはかなり残念な結果でした。レポートが、授業で講師が示した考え方に対して、受講者がそれに対する考え方を示すという、対話の一つとしてあるとするならば、私が何と言おうと、「そんなことは知らない(分からない)から勝手に書きました」、では、こちらも別に何も話すことはなくなるように思います。

 課題がよくわからなかったとしても、こちらとしては聞かれれば事前にそれがどういう意味かは説明を加えられるわけですし、また、授業でこちらが行なっているような分析を見れば、だいたいこういうことをすればよいかが伝わるはずで、それだけで理解するのが難しければ、そもそもこの授業ではどういう分析をやっているのか、それではこういう題材はどうか、という質問や具体的な提案が出されてもしかるべきで、授業期間中に質問がほとんどなかったことも含めて、コミュニケーションが足りない、というのが今回の全体的な印象でした。

 
最終的な成績については、今回のレポートに加え、4回の授業内課題提出への評価にもとづいて総合的に算定しております。

以上

2010年3月3日
是永 論