■立教大学体育会水泳部の歴史-1
●大正10年〜大正15年:誕生期 ●昭和41年〜昭和50年:変遷期
●昭和元年〜昭和9年:黎明期 ●昭和51年〜平成15年:復興期
●昭和10年〜昭和20年:黄金期 平成13年〜平成22年:飛躍期
●昭和21年〜昭和40年:戦後復活期

●大正10年〜大正15年:誕生期

■水泳部 誕生から今日まで:

 立教大学体育会水泳部は大正10年創立され、平成12年(2000年)に80周年を迎えた。 その歴史は、まさに大正/昭和にかけての日本水泳界の歩みそのものであるがごとき伝統を持つ、といっても過言ではない。 大正時代の日本は、日清・日露戦争・第1次世界大戦を経て、国際連盟成立(1920年)と同時に常任理事国ともなり、世界の列強国として抬頭してきた。そして急速に近代国家として、富国強兵の名のもとに工業国家志向と合わせて帝国主義思想の時流にのり、国民の意識も大変高揚した気分にあった。西洋風の風俗がつぎつぎと日常生活の中に持ち込まれ、これを巧みに消化していった。

 都市部では洋服、洋髪、洋食が普及し、大正14年にはラジオの第一声が電波にのって流れ、映画も弁士つきの活動写真であったが、大衆文化の1つとして普及しつつあった。この様な時代の中にあって、ただ一途に水泳競技の発展と水泳技術の向上に倦むことを知らない情熱をそそいで努力する若人達があった。立大生、野村憲夫もその1人である。 一方、オリンピックにおける水泳競技は、第4回ロンドン大会の開催(1908年)を機に競技種目も自由形、背泳、平泳、リレーとなって新しい局面を迎え、わが国の水泳競技への関心の高まりと、その後の発展へ大きな影響を与えたことは想像に難くない。

  我が国の本格的な水泳競技大会は大正3年8月10日、極東大会代表を選ぶという前ぶれのもとに、大森のガス会社構内の掘り割りで開かれた「第1回全国水泳大会」が発端であるといわれている。往時の泳法は武道・武芸としての流れから「抜き手泳法」が主流であったが、外国と対抗するためには、日本泳法よりクロールが有利との判断に立ち、競技としての泳法研究が盛んに行なわれるようになったのもこの時代からである。折しも、大正6年神田のYMCAに冬季でも泳げる室内プールが完成し、これが関東全体の冬季練習場のような形となり、大学の選手が集まって水泳研究の中心となっていった。このYMCAプールで練習するには、東京基督(キリスト)教青年会会員(要会費)にならねばならなかった。また、会員には一般会員とは別に競泳中心の水泳部が設けられ、後に立教大学水泳部を創立した野村憲夫もメンバーの1人として参加し、泳ぎを研究していた。


大正10年:

 万朝報新聞社が主催して大学対抗の水上競技大会の開催に乗り出し、9月10日、11日の2日に亘って、生麦の三笠園池にて開催された。 第1回学生水上大会の参加校は立教・慶大・明大・早大・一高・東京薬専・拓大・東京高師・東大農学部・長崎高商・東京高工の11校であった。当時、YMCAでバスケットをする傍ら、水泳をしていた野村憲夫は第1回から出場することが大切であると判断し、本井 巧と共に出場した。優勝は16点を挙げた明大であった。 本大会競技場にはコース・ロープも無く、プールの底にコース・ラインも無かったため、他コースへはみ出す選手もいて着順に混乱もあったり、多少のトラブルもあったが大会は大成功であった。

  この大会開催を境に、各大学水泳部は猛練習を始め、合わせて有望選手の獲得に乗り出し水泳界は活況に向かっていく。この時、既に野村の胸中には、母校立教大学水泳部創立の判然とした構想があって、水泳部創設について学校側と交渉を重ねたが、当時は水泳部としての形態をなしていないことから、学校の承認を得られなかったのも無理はない。がしかし、立教大学生として出場したこの第1回大会をもって
「立教大学水泳部創立」とするのが正しいと思うのである。この大会は、第3回目から新聞社主催を離れ学生連盟で運営されるようになるが、当時、水泳師範や水泳場主宰の多い体協水泳部から、この学生大会の中止運動も行なわれるような中で、参加者がどれだけ集まるか判らない状態であったにもかかわらず、当時、万朝報記者であった鷺田成男が発案し、開催にこぎつけた功績は高く評価されている。また、この学生競技の開始は後の日本水泳界にとって大きな意味を持つものであった。

大正11年:

 第2回学生大会は万朝報が主催、9月9日、10日の2日に亘り、調布プールで開催。この調布プールは多摩川べりに掘りっぱなしで、100mの折り返しに近付くと手の先に砂利が触るような状態であったという。団体戦は第1回に続き早・明の優勝争いが白熱したが、早大が32点を挙げ、明大の23点を押さえて優勝を飾った。立教は岸和田中学から入学した斎藤巍洋が活躍し、自由形800mと背泳100mに優勝。400mリレーは坂本、本井、野村(瞳)、斎藤で3位となり、団体も第3位(15点)に進出した。前年、大正10年度大毎全国中等(第7回)で50m自由形(30秒6)、100m背泳(1分15秒4)で優勝し、頭角を現した斎藤巍洋が立教に入ったきっかけは定かではないが、多分、野村、本井の熱心な勧誘の成果であったに違いない。

  当時の立教大学水泳部は学校の公認ではなく、バスケット部の選手を中心にして水泳大会に参加した。因みに、野村 瞳は野村憲夫の実弟でバスケットの花形選手であったし、坂本は茨木中・明大・立大と進んで柔道4段といった具合で、まさに混成部隊であった。また、この年9月に全国学生水上競技連盟が結成され、連盟の規約ができたが、役員が決まったのは、翌12年6月になった。会長は、末弘巌太郎、副会長梅沢親光、主事飯田光太郎、実行委員堀安治(高師)、松沢一鶴(一高)本井  巧(立教)、清水吉之助(早大)、和久山修二(明大)であった。これまで水泳が日本体協の一部門で進んできた形に飽き足らない気分が底流していたのも、新たな動きに拍車をかけることとなり、連盟結成の実現を見ることとなった。学生連盟は設立と時を同じくして日本水泳統括団体創立に動きだし、期せずして日本水連誕生の主役を演じることとなった。

  最初の学生連盟規約によると、参加校のリレー参加を義務付け、競技会は毎年9月第2日曜日と定め、競技種目は50m、100m、200m、400m、800mの自由形、100m背泳、200m平泳、400mリレーの8種目とし、オープンとしてダイビングを加えている。大正12年の加盟校は、早・慶・明・立・高師・一高・慈恵大・松山高・東商大・拓大の10校であった。日本学生に続き、9月14日同じく調布プールにおいて全国大会が開催され、YMCAから出場した斎藤巍洋は100m背泳に2位となり、後に立教へ入学し、活躍する磯部勝治(浜名)も200m自由形、1位に名を連ねている。


大正12年:

 9月1日東京・横浜を中心に死傷者24万人、倒壊・焼失家屋70万戸を数える、強大な自然力の打撃を受けることになった関東大震災は、学生連盟の準備した第3回日本学生をも中止に追い込んだ。日本での2回目の極東大会は、大阪築港の総合運動場で開催されたが、極東大会に先立ち、5月7日・8日極東予選会が同プールで行なわれ、斎藤巍洋、磯部勝治(浜名)が代表選手39名の中に選ばれ、大会では斎藤が100m背泳1分12秒0で優勝を飾った。大正10年に野村憲夫は水泳部を創設したが、当初は学校が部としては認めず、バスケット部に同居する形であった。当時、バスケット部の委員をしていた山内光和、初代マネジャー戸田主雄等の尽力により、大正12年、校友会運動部一部会として認定され、部の予算も交付されることとなった。学校側としても、前年の学生大会3位の実績を大きく評価したものと思われる。そして初代部長には生粋の立教人である本庄季彦先生がなられた。

  当時、立教大学で運動部として存在していたのはテニス部・相撲部・野球部・陸上競技部・バスケット部・卓球部・柔道部位であったが、山内光和はこの内5部の委員をし、野村憲夫はバスケット部・陸上競技部に続き、ここにまた水泳部をも創立した行動力には、敬服するばかりである。


大正13年:

 関東大震災(大正12年)の直後ではあったが、日本体協では小規模でもパリ・オリンピックに代表を派遣することを決定し、関係各方面に協力を要請した結果、代表派遣が承認された。水泳は前年の成績から推薦の方式で6名の代表選手を決め、その中に斎藤巍洋が選ばれた。一行は4月26日出発、41日間の航海中、甲板に長さ7メートルのキャンパスプールを作ってもらいターンニング、またターンニングしながらコンディションの維持に努め大会開催地パリに着く。現在の航空機による移動時間の12〜13時間と比較すると、その苦労は察するに余りある。

  パリ・オリンピックにおける斎藤は残念ながら決勝進出はならなかったが、ベスト6とし6位のディプロマを得た。創部4年目の立大水泳部から初のオリンピック出場はまさに快挙であったし、以後の水泳部隆盛への幕開けでもあった。第3回日本学生は、9月13日、14日、芝公園プールで開かれた。この年、当時浜寺と並んで日本水泳界の1つの根拠地であった浜名湾から白都定義、清水 実が入学し、水泳部として着実に歩き始めることとなる。大会では白都が50m自由形3位、斎藤は100m背泳2位、清水 実は50m自由形で6位、400mリレーでも3位に入り団体で9.5点を挙げて5位となった。

  大会には9月1日帰国した、オリンピック代表を見ようと超満員の盛況となり、水泳が人気スポーツとしての地位を築くこととなった。また、この年から明治神宮大会が開始され、水泳も10月31日、11月1日の2日間、芝公園プールで開かれ、大学選手も地方別になって出場したがシーズンが遅すぎたため、目立った記録はなかった。この競技の1日目に、各地から集まった水泳団体関係者が会合し「大日本水上競技連盟の創立」を決定する。


大正14年:

 パリ・オリンピックの後、日本体協は総合競技団体として出発する方針を決定し、これによって水上、陸上をはじめ各競技は、体協から離れ各々独立した競技団体として歩み始める。水泳は学生連盟が主導して大日本水上競技連盟を創立した。学連と日本水連との関係は前者が、大学または専門学校を基礎とする団体、後者は各地域を基礎とする団体とに区分した。

  日本水連では創立と同時に、日本記録の根拠とするため、従来の記録の中から信頼するに足る記録を日本最優秀記録として公表した。しかし、これにはオリンピックの記録であれ、海外で作られた記録は入れなかった。総合競技団体に加盟した日本水連の初仕事は、この年マニラで開かれる第7回極東大会代表選手の選考であった。関東水泳協会が予選会を担当、4月25日、26日、東京隅田プール(25m室内)で行なわれた。その結果、25名の代表を選出し、その中に立大から斎藤巍洋、磯部勝治が入った。

  第4回日本学生は、9月19日・20日芝公園プールで開催され、斎藤巍洋は自由形50mに27秒6で優勝、100m背泳も2位。自由形200m・400mで磯部勝治がそれぞれ3位に入り、続いて400mリレーも2位となって団体は早大に次いで2位を確保する活躍をみせた。斎藤はこの年10月11日〜13日の日本選手権においても、転向したクロールで自由形100m(1分03秒8)の選手権を獲得した。ここにやがて迫りくる立教大学水泳部黄金時代の息吹と、水泳部員の高まる心意気を感ぜずにはいられない。斎藤の自由形50m、100mの優勝は一躍注目を浴びることとなった。抜き手の頃から長距離を泳いでいて、その後背泳に転向し、再び新しい自由形に転向しての成功は稀有のことであった。

  ここで、今少し斎藤と磯部のことに触れておきたい。競泳開始時のクロールは抜き手泳法からの転向者が大半で大きな煽りが入るのが普通であったが、最初からクロールで育った選手が出てきて、記録は目に見えて良くなってきていた。抜き手育ちが消え行く中で背泳に活路を見つけた斎藤が抜き手の癖と戦い、これに打ち勝ち、クロールの斎藤を生ぜしめた工夫と努力には誰もが感心した。考える以上に、抜き手からクロールへの転向は困難を極めたことであった。抜き手の癖を忘れる方法はバタ足に慣れ、これをこなし切る以外にない。斎藤はバタ足療法に成功し、クロールの基本練習にバタ足だけの部分練習の重要性を悟り、これを練習の中にも試みて着々と効果を上げていった。

  立教を卒業後、毎日新聞社に勤務した斎藤は昭和9年大阪から東京へ転勤になると、立教大学水泳部監督となり、いよいよ立教水泳部の黄金時代を築いていく。斎藤は練習方法だけでなく、その熱心さは、野村、山内らの話によると自分の泳ぎに納得いかねば、冬でも早朝から山内らを起こし、哲学堂の池に行き、陸上部から貰ったヤリ投げ競技の折れた槍で氷を割って練習したことが何度もあったという。

  これ以前のクロールは、30〜40mは首を突っ込んで泳いだり、途中から煽り足になったりなどした泳ぎであったが、種々改良されて綺麗な泳ぎで記録も短縮されるようになってきていた。当時、茨木流が見習われ、ついで浜名流が目標になるといった具合であったが、浜名流の源は大正14年に立教へ入学した磯部勝治だといわれている。当時、水泳部の練習は東長崎にプールが出来るまで、YMCAのプール、哲学堂の池、野方のプール、荒川放水路、平林寺あたりの池などで随分苦労したが、部員全員誰一人として不平も言わず喜々として練習に励んでいた。まさに、泳ぐことが大好きで、新しい泳法に、そして、新たな記録に挑戦して飽きることのない、熱心な青年の群像を見る思いがする。

大正15年:

 パリ・オリンピックを体験して、高石(早大)、斎藤(立大)、木村(早大)等は相手を海外に求めて試合をしたいという願望は募るばかりで、関係先へ遠征を打診し動き回ったことが発端となり、当時、ハワイの新聞、日布時事に通信を送っていた日布時事通信員塩津誠作氏の胆入りでハワイ遠征が実現する。この遠征は水連の計画外で、選手のリーダーシッブで実現した珍しい例であった。「アウトリガー・カヌー・クラブ」と日布時事通信の招待で、彼等の願望は実現し、高石勝男(早大)、斎藤巍洋(立大)、新井信男(同志社中)、野田一男(慶大)、木村象雷(早大)がハワイ遠征の途についた。この遠征は大成功となり、後の日米対抗のきっかけとなっていく。

  当時、アメリカ水泳の実力の半ば以上をハワイで占めていて、カハナモク兄弟、ケロハ兄弟、ハリスなどパリ・オリンピック選手がいたが、ハワイと日本チームとの実力は接近していた。日本/ハワイ対抗戦は6月18日、19日の両日、ブナホウ・ハイスクールの25ヤード・プールで開かれた。プールの回りに作った斜面の立ち見席は初日から満員となり、第2日目などは、入場券が手に入らず、高いプレミアムがついた。対抗戦では高石が自由形に完勝、100m自由形で斎藤も3位となったが、背泳は世界第一人者ケロハを有するハワイが強く、斎藤も入賞を逸した。800mリレーは9分44秒0で野田、斎藤、新井、高石の日本チームが勝ち、これが当時の世界記録であるイリノイACの9分53秒0を破る新記録、とアナウンスされると、スタンドの在留邦人は総立ちになって喜んだ。

  祖国を遠く離れて暮らす在留邦人の皆さんにとって、何よりも大きな誇りと勇気を与えた出来事であったろう。また、この大会のニュースは日本でも大きく報道され、報知新聞は日本/ハワイ対抗戦を日本でやる計画を立て、9月になって実現することとなる。日本選手権は8月14日〜16日京都二商で開催されたが、立教から3位以内の入賞者は残念ながら出なかった。この年、日本学生は7月30日、31日玉川で開かれ100m自由形、100m背泳で斎藤巍洋は2位、200m平泳では渡辺寛二郎が3位を確保し、立教は団体は16点を挙げて4位となった。

  6月の日本ハワイ水上に刺激され、報知新聞が計画した日米対抗は、9月7日、8日玉川プールで行なわれた。日本選手団17名の中に斎藤が選ばれたが、レースでは残念ながら不調で3位以内の入賞を果たせなかった。東京大会では、総得点日本26対16アメリカで日本の勝ちになり、大阪大会では日本チームが振るわず、アメリカ23対19で日本の負けとなった。シーズン・オフに豪州からの招待で斎藤巍洋は高石勝男と共に渡豪。100ヤード背泳に1分10秒8の豪州新記録を残して2月に帰国した。


 


Copyright© Rikkyo Univ.Swim Team. All rights reserved.