■立教大学体育会水泳部の歴史-3
●大正10年〜大正15年:誕生期 ●昭和41年〜昭和50年:変遷期
●昭和元年〜昭和9年:黎明期 ●昭和51年〜平成15年:復興期
●昭和10年〜昭和20年:黄金期 ●平成15年〜平成22年:飛躍期
●昭和21年〜昭和40年:戦後復活期

●昭和10年〜昭和20年:黄金期

昭和10年:

 ベルリン・オリンピックを翌年にして、この年の最大の行事は日米対抗であった。日米対抗選手選考会は8月3日〜5日の3日間神宮プールで行なわれた。日米対抗に出る選手として先ず10名が選ばれ、日米大会の前に大阪で開かれた国際水上の結果4名を追加して14名を選んだ。その中に立教から根上 博と本田惣一郎が選ばれた。日米予選会では、400m自由形に根上 博は4分46秒0の日本新記録で優勝。1500mでも根上が9分13秒2で優勝。本田惣一郎も19分37秒8で2位となった。後に立教に入って大活躍をみせる新井茂雄(浜蚕)も100m自由形で2位(59秒6)となり、日本チームに名を連ねている。米側も全米室内選手権と全米学生で第1候補を選び、デトロイトでの全米屋外選手権の成績で14名を決定した最強チームであった。

  7月31日に日本に到着した米チームは10日間の練習の後、大阪で小手調べの国際水上に出て全種目に勝利した。日米対抗本大会は、8月5日午後6時半から神宮プールで第1回と同じく超満員の観衆を前に開会式を行なった。北白川宮ご夫妻、朝香宮、田中文相の祝辞の後、3日間にわたる日米間のオリンピック前哨戦の幕が切って落とされた。400m自由形では先行した根上が追い込まれ、メディカのタッチが速く、またも苦杯をなめたが、800mでは根上の逃げ込みが一瞬早く、根上の勝ちになった。2種目とも両者同タイム(400m・4分45秒2、800m・10分02秒4)であった。根上とメディカの緊迫したこのレースは、超満員の観客席に大きな興奮と深い感動を与え、後世まで名勝負として語りつがれていった。

  当時ダイナミックで力強い根上の泳ぎを「超特急」と称する新聞もあった。1500m自由形は日本が圧勝。石原田、牧野に続き根上は3位の健闘を見せた。また新井は100m自由形に59秒2で3位となっている。 400mリレーは新井、志村、平野、遊佐で3分55秒6の日本新記録を出すも2位。根上の出場した800mリレー(遊佐、石原田、牧野、根上)は、8分52秒2の世界新記録で勝った。総得点では36対27で日本チームが勝利し、来たるべきベルリン・オリンピックでの日本チームの活躍をおおいに期待できる成果をおさめて終了した。

  この年の日本学生は、9月13日〜15日、神宮プールで開かれ、田口正治は100m自由形に59秒2、200m自由形2分14秒2(1位遊佐と同タイム)で、ともに2位と健闘した。また鶴岡 栄は200m自由形2分19秒0で6位。根上は400m自由形では4分45秒2の日本新記録で優勝。本田惣一郎4分54秒8で5位、6位に鵜藤俊平が入った。800m自由形は根上が10分00秒8の世界新記録を出すも牧野正蔵に次いで2位。本田惣一郎は10分14秒4で5位、鵜藤俊平は10分29秒4で6位となる。100m平泳では筒井八百治が、1分19秒0で5位と活躍した。200mリレーでは田口、鶴岡、近藤、根上のメンバーで1分49秒0は、早大、日大に次いで3位であったが、800mリレー(田口、鶴岡、鵜藤、根上)は9分04秒0で、早大、日大を押さえ優勝した。総得点は日大の43点に次いで、41点を挙げ3位と健闘した。

  日本選手権は、シーズン・オフに近い10月4日〜6日の3日間神宮プールで開催され、記録への期待は無理であったが、オリンピック候補への道が通じているということでレースには見応えがあった。立教勢では、100m自由形に田口正治が59秒0で優勝、2位には新井茂雄(浜蚕)が59秒4のタイムで入った。200m自由形は、鶴岡 栄が2分20秒0で3位。400m自由形では根上 博が4分51秒2で優勝、2位には市野重治が5分01秒8で入った。1500m自由形も本田惣一郎が優勝(19分43秒8)、次いで鵜藤俊平が2位(19分57秒4)となって自由形全4種目に入賞、内3種目に優勝を果たす快挙でもあった。

  オリンピック候補選手は、第1次、第2次選考を合せた男子競泳36名、水球16名、女子競泳、男女飛込の選手が選ばれ、立教から田口正治、鵜藤俊平、根上 博、本田惣一郎、鶴岡 栄、市野重治の自由形陣が入り、11年に立教へ入学する新井茂雄を加えて自由形候補選手24名の内7名を占めた。また、水球でも田野耕清、鶴岡 栄が選ばれている。

  日本水連では、候補選手の冬季合同練習の計画を進めると同時に、11月末になってベルリン派遣役員を決定する。競泳コーチに、ブラジル海軍に招かれていた斎藤巍洋を起用することになり、斎藤を帰国させた。斎藤は男子競泳コーチに、渡辺寛二郎が会計担当役員に任命された。競泳男子候補選手36名は、12月25日から正月7日まで、九段の軍人会館に合宿して市立一中プールでトレーニングを行ない、松沢、斎藤コーチの指導を受け、YMCAの柳田、金子両トレーナー創案の水泳補助運動用の基本体操を習った。日本チームがベルリン・プールで、まず各国選手の注目を引いたのは、調子の合ったこの基本体操であった。当年度の日本新記録に根上 博の出した300m自由形3分32秒0、400m自由形4分45秒2が公認された。


昭和11年:

 いよいよベルリンの年である。8月8日から始まるオリンピック水上には、シベリア鉄道による長旅を克服しベルリンで充分な練習を積まねばならない。そのために最終予選会は、5月29日から3日間神宮プールで行なうことになった。最終予選会では短距離の第一人者遊佐に新井、田口の立教勢が力を上げたのが収穫であった。長距離でも進境著しい鵜藤の前に牧野が敗れる番狂わせがあった。この最終予選会を兼ねた日本選手権では、100m自由形では遊佐正憲の57秒8に次いで、立大新入生、新井茂雄が58秒4で2位、田口正治が60秒0で3位。200mでは逆に田口が2分14秒8で優勝、2位には2分15秒6で新井が入った。

 鵜藤俊平は400m自由形4分54秒4、1500m自由形19分45秒6で泳ぎ、石原田、寺田の強豪を抑えて2種目に優勝を飾ったが、中・長距離界のエース根上 博はこの時不調で、400m自由形3位(4分55秒6)に終わった。選考会は競泳選考委員24名の中に立教OBの松浦武雄、本井 巧、野村憲夫、斎藤巍洋、渡辺寛二郎の5人が入って行なわれ、男子競泳22名、女子競泳7名、飛込5名、水球11名を代表選手をとして決定した。

  男子競泳22名の中に、立大から田口正治、新井茂雄、鶴岡 栄、鵜藤俊平、本田惣一郎、それに、この春卒業した根上 博の6名が選ばれた。また、水球に田野耕清が入り、7名の多くを数えた。競泳の代表6名には早大が同じく6名、慶大4名、明大2名、日大2名と続く。まさに立教は、日本水泳界のリーダーの地位に在り、特に、自由形陣は未曾有の最強チームであった。ベルリンへの出発は、6月11日に競泳、20日に水球、飛込の2組に別れた。これを前にして6日に日・立・明3大学、7日に早慶対抗の競技があり、代表に選ばれた選手もこれに参加した。3大学では、鵜藤は400m自由形に4分48秒2、新井は100m自由形で遊佐を負かし、58秒2で泳ぎ、元気なところを見せた。

  シベリア鉄道の旅は、選手が高い寝台から寝返りして落ちる者も続出のような話題があったが、第1陣は6月26日にベルリンのフリードリッヒ駅に到着した。 駅頭に出迎えたオリンピック村村長さんに「頭ら中」の軍隊的敬礼をして規律の良いところを見せたのが、ベルリン到着第一歩の情景であった。ヒットラー最盛期のベルリンで、街には五輪旗とハーゲンクロイツが翻りオリンピック・ムード一色であった。日本チームの人気は良かった。外交的にも日独伊は親しく、東京オリンピックを招こうとしていたことと合わせて、大チームを編成して参加したことなどから好感を持たれていた。男子チームは、オリンピック村のプールと体育大学プールで練習したが、屋外プールはまだ水温が20度位しかなく冷めたかったが、選手は順調にコンディションを取り戻していった。

  着いて10日目、清川は100m背泳で1分8秒4、その一週間後には新井が100m自由形に56秒6の記録を出し、23日にはリレーメンバー選びの200mに好記録が出た。新井は2分09秒4、杉浦2分9秒6、鵜藤2分10秒0、根上2分10秒8で、チーム全体の調子はこの前後が絶頂にあった。7月26日に、大会を前にしての息抜きに、選手全員はライン河見物の観光旅行をして、帰ってから鵜藤が400mに4分40秒2の好記録を出した。その間に1940年大会は、ヘルシンキを抜いて東京招致と決まり日本選手たちは歓喜し、一段と肩身の広まる気持ちで8月1日の大会開会式に臨んだ。水泳は、マラソンに日章旗が揚がった8月8日から始まった。

  日本側で気にしていたのは、背泳のキーファ(米)と、小池・葉室に匹敵するバタフライのヒギンス、ケズレーであった。自由形は、22日・23日の試泳会での日本選手の調子が素晴らしく、問題なく勝てるという空気になっていた。100m自由形から競技が始まり、予選、準決勝を通じて田口の57秒5、遊佐57秒5、新井57秒7と日本チームは順調で、優勝は3人の内、誰かが取るだろうと考えていた。決勝では伏兵チック(洪)が予想に反して1位で57秒6、2位遊佐57秒9、3位新井58秒0、4位田口58秒1に終わったが、成績は直ぐ出ないほどの接戦であった。新井と宿舎で同室だった鶴岡は、さすがの新井も決戦前夜は眠れない夜を過ごした。

  レースは、日本の3選手が互いを意識し、牽制し合う展開の中で「気が付いたらチックにやられていた」と、後日語っている。800mリレーでは好選手の揃った日本が断然強く、決勝は遊佐、杉浦、田口、新井のメンバーで8分51秒5の世界新記録で優勝、米国(9分03秒3)を圧倒した。400m自由形は日米対抗でメディカに敗れた牧野、根上に新鋭鵜藤を加えての挑戦であった。鵜藤は予選・準決勝を4分45秒5、4分48秒4で通過、根上は4分52秒6、4分55秒4で決勝に臨んだが、決勝では4分44秒5を出したメディカが優勝、2位鵜藤俊平4分45秒6、根上は4分53秒6で5位となった。

  また、牧野正蔵は鵜藤に次いで3位に入った。1500m自由形はメディカ(米)と日本の鵜藤、寺田、石原田の争いで、レースでは寺田は150mからトップに立ち、メディカが追いかける展開となった。ゴールでは25mの大差で優勝、メディカに10mほども空けられていた鵜藤は猛烈なラスト・スパートでメディカに迫ったがわずかに及ばなかった。優勝した寺田は19分13秒7、2位メディカ19分34秒0、3位鵜藤19分34秒5であった。

  競泳最後のレースに勝って、日本チームは生き返り3種目優勝を収めて米国の2種目を抑え、さらに、女子競泳で日本女子最初の優勝を果たした200m平泳前畑選手の活躍の話題を添えて、この大会を終えた。ベルリンからの帰途はチームは3つに分かれ、欧州各地に転戦、見物旅行を行ない、船便で10月13日に帰着した。この年学生連盟は、名称を「日本学生水上競技連盟」と改めた。この年の大会は、学生主力がオリンピックのため不在で平年度のレースと変わったレースになった。6名をオリンピックに送った立教と早大は苦戦し、日大が創部以来の団体優勝を果たした。立教は坂本が100m背泳(1分12秒0)・200m背泳(2分39秒0)共に2位と気を吐き、門屋 桂も2分41秒2で6位に入った。200m自由形は近藤 進が2分20秒0で4位、市野重治も2分21秒8で5位に入った。

  800m自由形には本間俊夫が11分00秒0で5位、800mリレーは近藤、篠塚、本間、市野が頑張り、9分31秒0を出して2位に入り、得点28点を挙げ4位であった。この年の日本新記録として根上 博の300m自由形、3分31秒8、400mの4分45秒0が記されている。ベルリン・オリンピック出場を記念して東長崎のプールの周りには代表選手7名の栄誉を称え、7本のヒマラヤ杉が植樹され、立教大学水泳部のシンボルとして後々まで後輩部員の練習を見守ることになっていった。


昭和12年:

 1940年の東京オリンピックに向けて、日本水連では臨時代議員会を開き、役員改選を行なった。新役員の中には常務理事(競泳)として松浦武雄が選ばれた。また、オリンピックに備え競泳委員会を編成することになり、泳法研究に基づいた理論とその指導に抜群の手腕を発揮した斎藤巍洋を、ヘッドコーチに任命した。この年からルールが改正され、クイック・スタートから、デッド・スタートに変わった。新ルールはこれまでの予鈴で動作を始めて良しとしたことから、銃声が鳴るまで動作が出来なくなった。このため、少なくとも0秒4だけ従来より余分に掛かることになったが現在もデッド・スタートが実施されている。

  新年早々から強化の冬季練習が行なわれ、5月にはアメリカのメディカがオーストラリア遠征から帰国の途中立ち寄ったので、5月4日に東大プールで歓迎レースが行なわれた。屋外シーズンの初めの3大学対抗では、新井茂雄が100m自由形に59秒4、200m自由形に2分15秒8を出して注目された。日本選手権には、アメリカから背泳の第1人者キーファ、長距離のメディカ、バタフライのヒギンス、飛込のルート、女子万能選手ロールスの5名を招いた。一行は各地を転戦し8月14日から3日間神宮プールで開かれた日本選手権に出た。日本選手権は400m自由形で牧野がメディカに勝ち、ベルリンの雪辱を果たした。

  背泳のキーファは断然強く、キーファ・ターンの威力を知らされた。斎藤巍洋はこのキーファ・ターンを観察して「従来、難しく考えていたが、実際に見るとバンデウェーがやっているのと違って、実に簡単にできるということがはっきりした。今まで折り返し面で、ゆっくり腰を曲げてやっていたのを、大急ぎでやり、手でオーバー・フローを握らず、腹の力を十分効かせ、機敏にすれば良いのである」と述べ、技術の習得にも意を注いでいた。

  大会では新井茂雄が、100m自由形に58秒4、200mは2分13秒2で2種目に優勝。1500m自由形は本田惣一郎が、メディカに勝って19分53秒2で3位となった。この年、日本学生は9月18日〜20日、神宮プールで開かれ、まず50m自由形で、田口正治が26秒6で優勝、100mでも2位に入った。新井茂雄は100mを57秒8、200mを2分12秒2で優勝、続いて坂本が100m背泳に1分10秒8、200m背泳・2分36秒0で泳ぎ、共に3位となり、平泳200mには大浦誠一郎が2分48秒6で4位に入った。続いて、200mリレーには鶴岡、篠塚、坂本、新井が頑張り1分47秒4を出して優勝。800mリレー(田口、鵜藤、本間、新井)は、9分09秒6で2位となった。その結果、得点53点を獲得、早大に次いで団体も2位となる活躍ぶりであった。当年には自由形・水球で活躍した田野耕清が卒業した。


昭和13年:

 支那事変の戦局が拡大する中で、東京オリンピックも2年後に迫っていた。オリンピックは、1940年(昭和15年)9月22日から10月6日までの15日間、水上競技は9月28日から10月5日までの8日間開くことに決定された。日本水連では、オリンピック選手強化策として関東・関西で合宿練習を続けていた。この年の選手強化の計画は、アメリカ遠征が焦点にされ折衝が行なわれていたが、3月初めアメリカ側から断ってきたので、これを断念しアメリカ選手を日本に招く方針で、交渉を重ねた。そうしている内に、支那事変は戦局が拡大する一方で、日本は総力戦に突入し始めた。

 政府は7月15日の閣議で、遂にオリンピック返上の決定を行なった。日本水連は、東京大会に代わってヘルシンキにオリンピックが開かれることについて、日本が参加するかどうか未決定であったが、ロサンゼルス大会派遣チームくらいを想定し派遣準備を進め、強化も計画に従って進めることにした。日本水連関係者の入営、応召が始まり、昭和13年末の機関誌「水泳」59号の兵役関係者名簿の中には立教関係者では根上 博、田野耕清の名がある。この様な状況の中で、日本選手権関東予選会が8月10日に神宮プールで行なわれ、日大の天野選手が1500m自由形に念願の19分の壁を破る18分58秒8の世界新記録を出して一躍注目された。

  本大会は8月19日から甲子園で開かれた。400m自由形に100m・200mの第1人者立教の新井茂雄が進出し、天野と一騎討ちを演じた。100m・200mに集中してきた新井が、400mをどうこなすか注目されたが、新井はスプリントを利して前半に水を空け、300mに3分30秒8の日本記録を出し、最後に天野に追い込まれたが逃げ切った。400mで天野を制した新井は、200mにも2分9秒6を出し、短距離の世界第1人者の貫禄を示すものであった。大会では鶴岡 栄が100m自由形に1分02秒4で2位、新井茂雄は200m(2分10秒6日本新記録)・400m(4分47秒0)でチャンピオンとなり、1500mでは20分01秒4で本田俊夫が2位、坂本は50m背泳に32秒4、100m背泳も1分11秒2で共に3位に入り、大浦誠一郎も100m平泳3位(1分17秒0)・200m平泳2位(2分46秒6)に入賞した。

  9月17日・18日、日本学生が、神宮プールで開催され、短距離のNO.1新井茂雄が大活躍。100m自由形58秒4・200m2分10秒6の好記録で優勝した。200mに出場した鵜藤俊平は2分19秒0で5位となった。50m・100m背泳には坂本が32秒4、1分11秒4を出して4位。平賀 孟が1分13秒6で6位入賞を果たした。また、平泳の大浦誠一郎は200m平泳2分48秒0で3位に入った。 200mリレーは新井、坂本、本田、鶴岡が1分48秒6を出して2位。800mリレーは、新井、本間、岩切、鵜藤が頑張り優勝を飾った。この年は総得点、39点を挙げ4位となった。新井茂雄の出した200m自由形2分09秒6、300mの3分30秒8は日本新記録として公認された。 尚、この年3月の議会では国家総動員法を成立させ、これに基づいて賃金統制令・国民徴用令などが次々と出され、大陸の動向と相まって戦時体制が刻々と強化されて、国内も緊張が高まっていった時代であった。


昭和14年:

 日本水連会長末弘巌太郎は日本体協理事長に就任したので、水連では会長を代行する理事長制を採ることになり、田畑政治が理事長になり、会長指名により新役員を決定した。新役員には立教関係から常務理事に松浦武雄、渡辺寛二郎、斎藤巍洋が任命された。 ヘルシンキで次のオリンピックが開かれる見込みになったので、7月8日の代議員会で競泳第一主義でコーチ・マネジャーを含め20名以内少数精鋭主義で派遣を決定し、競泳の連覇を目指すことになった。この年の強化策の一環として、水連はアメリカ或いはドイツの選手を招聘する交渉を重ねていたが、なかなか上手く行かず、そのうち8月にドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まり消え去った。

  この年の春、満州、蒙古国境でソ連と戦火を交えた、ノモンハン事件で「根上 博オリンピック選手戦死」の誤報が伝わり、米キュッパス・コーチからも弔電が届いたりした。日米間の外交関係がギスギスしていく中で、スポーツマンの爽やかさを覚えさせるエピソードであった。 競技では、自由形に新井茂雄、宮本 茂、高橋 弘、天野富勝、背泳に児島泰彦、吉田喜一、平泳に葉室鉄夫など全盛期にあったが、世界に試す機会は閉ざされてしまった。 国内では、このシーズンも学童ラジオ水泳、海洋団体競泳が引き続き行なわれた。海洋競泳の名称は「敵前上陸海洋団体競泳大会」とされ、神宮競技の実業団種目に潜ぐったり運搬したりする200m潜水運搬競技が加えられるなど、戦時色が濃くなっていった。

  この年の日本選手権(8月27日・28日)から競泳種目が減らされ、男女ともオリンピック種目だけで行なわれるようになった。大会では100m・200m自由形で新井茂雄は58秒6・2分09秒6を出して優勝、100m自由形に3年連続、200mに連続優勝し、向かうところ敵なしであった。1500mには、天野に続き、本間俊夫が19分34秒4で2位。大浦誠一郎も200m平泳では、葉室に次いで2分44秒6で2位となる力泳を見せた。また、第18回日本学生は、9月15日〜17日神宮プールで行なわれ、50m自由形に大崎兼定が27秒4で3位、100m・200mは新井が57秒8・2分10秒6で制し、日本学生3連覇の偉業を達成した。

  200m平泳は大浦誠一郎が日本選手権と同じく葉室に次いで2位を確保、100mでも1分16秒5で5位となった。 また、50m背泳には平賀 孟が32秒6で5位、100m背泳は5位に坂本が1分12秒2、6位に平賀 孟1分12秒6と頑張りを見せた。200mリレー(新井・大崎・本田・坂本)は優勝、1分48秒0。800mリレー(新井・本間・本田・鵜藤)は2位・9分06秒2。総得点52点を挙げたが、団体は日、早、慶に次ぎ4位に終わった。


昭和15年:

 「オリンピックは未だ望みなきにあらず」の形勢で始まったこの年も、シーズン初めにかかる5月6日、ヘルシンキ大会中止の報に第一線選手は、がっくりした。これより先、南米ブラジルから選手派遣の要請があり、学生は学期末試験にかかるので、社会人の遊佐、卒業を待つばかりの葉室の2名が斎藤巍洋の付き添いでブラジルに出かけ、アルゼンチンにも足を伸ばした。1月から5月に亘る長期遠征であった。相手に強い選手がいないので、見せたり、指導したりの親善旅行だったが、ブラジルの桑島大使、アルゼンチンの内山公使からも「親善に大いに貢献した」という礼状も届き、国際親善に成果を上げた。

  この年は皇紀2600年に当たるというので、奉祝神宮大会が開かれることになり、日本泳法演技の奉納も9月22日・23日の両日大々的に行なわれ、水府流、向井流、神伝流、野島流その他の宗家が秘技を披露した。日本選手権では新井が、カンバックしてきた遊佐の挑戦を退け、100m・200m自由形に59秒2・2分14秒2で優勝し、100m自由形3連勝、200mは4連勝を果たし短距離の王座を保持した。また、大浦誠一郎も、100m平泳に1分16秒2で初の日本選手権を獲得、200mも葉室に次いで2分44秒8で2位となって、平泳で立教の大浦の名を残した。

  日本学生は、9月14日・15日神宮プールで行なわれ、50m自由形に本田武次が27秒4で2位、大崎定兼は27秒8で5位、100mでは新井茂雄が58秒8で優勝し、本田武次が60秒8で3位、200mは常勝新井が早大の宮本に敗れ、2位(2分14秒0)となる番狂わせとなった。800m自由形は本田俊夫が10分21秒2で2位、100m・200m平泳は大浦誠一郎が1分16秒0・2分44秒6で優勝、2種目を制した。50m背泳は平賀 孟が32秒4を出して5位、門屋 桂も33秒0で6位に入った。200mリレーは本田、坂本、大崎、新井が1分48秒6で優勝。800mリレーも新井、本間、白山、本田が9分13秒8を出して3位となって、総得点61点を挙げて早大、日大に次いで3位と健闘して、このシーズンを終えた。日本中等(甲子園)では200m自由形に2分18秒8を出した太田光雄(中京商)が優勝、400m自由形優勝5分00秒8・1500m優勝19分52秒4で酒井孝一(岐商)が名を刻んでいる。

昭和16年:

 この年、フィリピン体協の招きで立教水泳部が、年末から新春にかけて比島遠征を行なった。新井茂雄、本田武次、大浦誠一郎、本間俊夫、平賀 孟の5選手に斎藤巍洋が付き添った。1月9日から12日まで、マニラのリサール・プールで行なわれた比島選手権に出場、全勝の成績を挙げた。最も苦戦したのは平泳の大浦であった。イルデホンゾ、ジキルムはすでに引退していたが、マデインという潜水型平泳選手に悩まされた。この選手が決勝で40mを潜り疲労したので辛勝した。

  レースは50m自由形・新井茂雄26秒3、100m自由形・新井茂雄58秒5、400m自由形・本間俊夫4分58秒2、1500m自由形・本間俊夫20分07秒2、100m背泳・平賀 孟1分13秒3、200m背泳・平賀2分43秒7。100m平泳・大浦誠一郎1分16秒1、2位マデイン1分16秒7。200m平泳・大浦2分46秒7、300mメドレーリレー1位、立大3分29秒7、2位、ミンダナオ。800mリレー1位、立大9分34秒0、得点は立大66、ミンダナオ30、NCAA26、マニラ10であった。日本水連では、2月7日定例代議員会を開き役員の改選を行ない、立教から松浦武雄(編集)、川田友之(関東協会)が任命された。

  事業計画では、なお国際競技の計画を捨てず、その計画を進めていたが7月に入り、軍事物資輸送のため交通が制限され、全国に亘るスポーツ行事は一切出来なくなった。 水泳も日本選手権が不可能なり、これに代わり東京選手権、日本学生は東京学生選手権に変更、実施することとした。東京選手権は、8月16日から3日間神宮プールで開かれ、100m自由形では本田武次が1分00秒2で優勝、200mは新井茂雄が2分14秒8で優勝し、白山勝三も2分17秒6で2位となった。1500mは酒井孝一が19分48秒4で泳ぎ優勝。50m背泳は坂本が2位(32秒0)、100m背泳も坂本は1分12秒4で3位に入った。200m平泳は大浦誠一郎が2分44秒2で優勝、堤 愛治も3位(2分53秒4)と健闘した。

  東京学生は、9月13日・14日神宮プールで開催され、まず50m自由形で本田武次が27秒4を出して3位、100mは新井茂雄が59秒4で優勝。200mは2位(2分15秒4)、次いで太田光雄が2分16秒2で泳ぎ、3位に食い込んだ。100m平泳・200m平泳は1分15秒4・2分46秒4で大浦誠一郎が制し、優勝。堤 愛治も200mで3位になった。200mリレーは1分48秒8で優勝し、800mリレーも9分06秒0で立教チームが制し、総得点64点を挙げて早大の66点に次ぎ、残念ながら団体優勝を逃し2位となった。

  この年の日本新記録として、大浦誠一郎の400m平泳5分50秒8、500m平泳7分21秒4が日本新記録として公認された。12月8日、真珠湾攻撃とともに、日本は太平洋戦争に突入、戦時色は一層深まっていった。学生の兵士としての適応性を増加する目的で、大日本学徒体育振興会が結成されたのは12月24日のことであり、末弘水連会長は、その理事になり学徒水泳部長に推された。


昭和17年:

 進攻作戦は、シンガポール、フィリピン、ビルマに進められていた。4月になって、スポーツは国防体育に塗り替えられ、体協は大日本体育会に改組され、国内水泳の統括は体育会の水泳部会で行なうことになった。日本水連は解散手続きはしなかったが、機能停止の状態になった。日本体育会水泳部会が活動し始め、学生に関する行事は、学徒体育振興会が掌握に乗り出した。日本学生は、7月3日・4日・5日の3日間、神宮プールで開かれたが非公開の形式であった。立教は兵役で新井を失ったが、本田武次、太田光雄がこれに変わって奮戦し、長距離に酒井孝一の進出があって善戦した。レースは本田武次が50m・100m自由形に27秒0・1分01秒0で優勝を飾り、太田光雄も100mで2位(1分01秒8)、200mも2分19秒6で3位の活躍を見せた。

  また、酒井孝一は800mを10分16秒4で泳ぎ2位を確保、大浦誠一郎は100m平泳1分16秒4で2位、200m平泳は2分48秒4で優勝した。200mリレーに優勝、800mリレーも2位となって得点61点で早大に次いで2位となった。この年の日本選手権は、8月の東亜大会予選会を兼ねて7月11日・12日神宮プールで行なわれ、100m自由形に本田武次が1分01秒6で優勝、2位には太田光雄(1分01秒8)が入った。太田は200mでも2分18秒6を出し3位、200m平泳は大浦誠一郎が2分46秒4で優勝を飾った。東亜大会は、8月22〜24日嶺南で行なわれ、50m自由形は本田武次が遊佐に次いで2位。100mは本田武次が1分01秒9で制し、太田光雄も2位になった。1500m自由形では酒井孝一も津田(日大)竹内(明大)に次ぎ、3位と頑張った。

昭和18年:

 戦況はますます激しくなり、国内の戦時色は、さらに色濃くなっていった。陸上競技では、砲丸、円盤、槍など戦用物資の鉄を使うというので廃止、用具は供出、投技は手投弾のみとなった。水泳ではシーズン初めには早慶戦、大学対抗、関東大学水球リーグ戦など例年通り行なわれたが、7月24日文部省の指令で全てが中止された。9月24日、最後の断が下った。「学徒の体育大会は、形式の如何を問わず、中央、地方の一切の大会を禁止する。学徒は母校の校庭で訓練に邁進すべし」の通達が出、かくて水上の競技会も断絶した。

昭和19年:

 本土決戦が叫ばれ、戦況に切迫の度を加えた。8月6日神宮プールを中央会場に全国皆泳ラジオ水泳会が行なわれ、二宮文相はマイクを前に「一千万学徒よ、激しい戦いなればこそ、水泳を征服せよ」と訓示した。戦前の水泳のピリオドであった。名選手として指導者として泳法の研究に熱心で、立大水泳部からも多くのオリンピック選手、日本チャンピオンを育てた斎藤巍洋は、毎日新聞からマニラ新聞へ出向、水泳指導に当たっていた昭和19年9月、フィリピンでデング熱後の肺炎で亡くなった。享年40才の若さであった。

  また、昭和11年から昭和16年までの6年間に亘って、日本水泳界の100・200のスペシャリストとして日本短距離界を席捲し、王座に君臨した新井茂雄も、日本チャンピオンの名を欲しいままにして、ビルマ方面の戦場に散っていった。聞くところによると、戦闘中、後退の指令があったにも拘わらず、機関銃を抱いて最前線へ走り出て、そのまま不帰の人となったという。神宮のヒーローは短い人生の最後のその時までヒーローであった。斎藤巍洋、新井茂雄が、日本水泳界、立教大学水泳部に与えた影響とその功績には計り知れないものがある。もしも、斎藤、新井が健在であったなら…と思いを馳せると早逝を惜しまずにはいられない。

  立教大学水泳部の創部から昭和19年までの間、黄金期ともいえる時代を築いてきた、人々の情熱と努力には畏敬の念を禁じ得ない。顧みると、大正10年、野村憲夫らが創った水泳部は、昭和8年阿部三郎太郎先生、本井 巧他諸先輩の努力による東長崎のプールの完成、斎藤巍洋という逸材を監督兼コーチに得て、優れた環境が整い、各地から優秀な素質を持った選手が集まって、切磋琢磨していく中で発展の一途を辿って来た。北海道から松浦武雄、根上 博、千葉から本田惣一郎、鶴岡 栄、静岡から白都定義、磯部勝治、鵜藤俊平、新井茂雄、中部から太田光雄、酒井孝一等々、いずれも新聞記者として或いはコーチの立場で、斎藤と中等時代に接触のあった人達で、斎藤の水泳理論、指導力、その人柄を慕って立教へ入学してきたものと思われる。

  その数は枚挙にいとまがない。この時代、昭和9年から11年にかけて部員皆が急激に力をつけ、一挙に強くなっていった。中等時代には目立った存在ではなかった根上もその一人だが、当時の主将根上の熱心な勧誘で立教に来た鵜藤は、静岡県の掛川中学で水泳部に入ってはいたが、県下の大会に出るのがやっとというレベルの選手でしかなかった。ただ一度、自由形長距離で活躍した那須田清を破るということがあって、根上の目に止まり立教入学のきっかけとなったわけだが、立大水泳部では、ただ根上に言われるままに泳いでいた。そこでは、バタ足の練習を熱心にやらせられた以外、特に変わったトレーニングをしたわけではなかったが、夏にはまだ二流選手だったのが、その年末になると彗星のごとくトップクラスの選手になっていた。

  そして昭和11年5月、ベルリン大会の最終予選を兼ねた日本選手権で鵜藤は、大先輩の根上や慶応の寺田を抑え、400mと1500m自由形で1位になってしまった。1年前までは候補ですらなかった選手鵜藤が文句なく代表の座を手に入れた。このバタ足重視の練習法は斎藤が煽り足の泳ぎからクロールへの転向に成功した練習法で、立大水泳部の特徴的な練習法であった。当時のバタ足練習はプールサイドに手を掛けてやるのが普通であったが、立教は斎藤の指導で板ぎれ(今でいうビート板)を持ってやっていた。「当時、このバタ足練習は、他のの大学ではやってなく、立教だけだった。他校もこの練習を進んで取り入れていった」(大崎定兼談)。

  勿論、一流選手としての成功は本人の素質と猛練習によることに違いないが、この練習法を否定するものは何物もない。この間、戦争は世界の舞台に目を向けて水泳選手として一途に練習の日々を送っていた人達の希望も、夢も奪い去った。昭和15年・昭和19年のオリンピック、その間の日米対抗その他の国際試合が開催されていたら、鵜藤、新井、本間、坂本、大浦、平賀、本田、酒井、白山、太田、岩合、杉山、その他部員の中から多くのオリンピック選手、日本代表選手が出て、檜舞台での活躍を目にすることができたかと思うと残念でならないが、想像を拡げてみるだけでも快なりである。立教大学水泳部に青春時代を賭け、黄金時代ともいうべき1つの時代を飾っていった多くの水泳部員、なかでも斎藤、松浦、根上、田口、太田、平賀は、日本水泳連盟にあって良き指導者として、また母校水泳部の監督・コーチとして戦後も永く引き継いで、水泳界に多大の功績を残していった。


昭和20年:

 戦局は末期的な状況を呈し、国内は3月には東京大空襲、4月に入ると米軍は沖縄本島へ上陸、更に8月には広島・長崎への原爆投下を受けて、8月15日終戦を迎える。米軍の進駐、復員や帰郷など終戦後の混乱期に入ったが、世界にはスポーツ復興の兆しが見えていた。8月26日には、1949年のオリンピック開催について、複数の都市が立候補したという外電が、新聞紙面に躍った。

  10月18日になり、旧日本水上競技連盟の在京役員は岸体育会館に会合し、再発足を協議した。そこで、日本水泳協会として創立しようということになり、競技、普及、学生の3部制で進む方針を決めた。 10月31日、日本水連創立記念日(大正13年)に当たるので、岸体育会館に再発足の創立総会を開いた。会の名称は、協会とせず日本水泳連盟とすることになり、初代理事長には田畑政治が就任した。


 


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