■立教大学体育会水泳部の歴史-2
●大正10年〜大正15年:誕生期 ●昭和41年〜昭和50年:変遷期
●昭和元年〜昭和9年:黎明期 ●昭和51年〜平成15年:復興期
●昭和10年〜昭和20年:黄金期 平成13年〜平成22年:飛躍期
●昭和21年〜昭和40年:戦後復活期

●昭和元年〜昭和9年:黎明期

昭和元年:

 大正から昭和にかけての時代は、明治初年のころにも似て、生活文化が急激に変化した時代であった。映画も国民の中に受け入れられていき、昭和4年にはトーキーが輸入されて全国各地に常設映画館が出現して国民の人気を集め、レコード(蓄音機)も大正期には国産品ができ、昭和初期に入ると電蓄も発明されて洋楽が普及した。また、近代スポーツが学生から一般人へと拡がったのもこの時代の特色であった。中でも東京六大学野球戦、甲子園の全国中等学校野球大会などに人気が集まり、陸上競技や水上競技も盛んになっていった。

  一方、経済面では第一次大戦後の不況が続く中で日本は、昭和4年10月(1929)、ウォール街の株式大暴落が引き起こした世界恐慌に大打撃を受ける。都市には失職者が溢れ、農村ではうちつづく凶作に喘ぎ、世相は混乱を極め、大学は出たけれど…といわれた時代でもあった。混沌とした世情の中で、幾つかの流血事件も起こり、昭和7年の五・一五事件、11年の二・二六事件へと続く。国外にあっては満州事変、満州国建国、国連脱退、日中戦争、太平洋戦争へと、まさに風雲急を告げる激動の時代であった。この様な情勢の中で世界に通用する実力を持ってきた日本水泳は、ロサンゼルス・オリンピック、ベルリン・オリンピックと続いて、ドラマチックに国民を熱狂させる成果を挙げる。そして、そのドラマの主役の中に、多くの立教大学水泳部員の活躍をみることができる。まさに立教大学水泳部黄金期の到来である。


昭和2年:

 この年の日本選手権は、地方予選なしで7月30日から2日間、玉川プールで開かれる。8月末に全米選手権へ招待されていたのと、上海で開催される第8回極東大会が重なり、日本水連は2つのチームの選考を余儀なくされた。ハワイの全米水上派遣チームは、立教を卒業した斎藤巍洋を監督に高石勝男他4名の選手を選出した。上海極東大会派遣チームには、渡辺寛二郎が選ばれた。日米対抗は、塩水プールに慣れない日本チームが不調で、高石、鶴田が奮戦したがワイズミュラー、スペンスに及ばなかった。ワイズミュラーはアムステルダム・オリンピックのチャピオンになり、引退後は映画「ターザン」の主役を演じ、人気スターとなっていく。

  上海極東大会は8月27日から4日間開かれ、負ける筈のない日本が審判の不手際から負かされ、収まらない気分で帰ってきた。だが、フィリピンの短距離は、この2年間で大変進歩していて、イルデホンゾをはじめとするフィリピンの陣容は日本に勝っており、フィリピン侮るべからずが日本チームの反省であった。日本学生は、9月24日・25日芝プールで開かれ、極東、ハワイから帰った学生選手が、覇を競った。

  レースでは渡辺寛二郎が200m平泳(3分10秒0)に優勝の活躍をみせ、得点12点で団体4位となる。日本学生の後、10月1日・2日に玉川で開催された汎太平洋水上に出場した渡辺は、200m平泳に3分09秒0で3位入賞を果たした。この年、大正11年から文字通り全日本の第一線で活躍した斎藤巍洋は学窓を去り毎日新聞社へ入社、水泳指導者としての道を歩む。


昭和3年:

 この年はアムステルダム・オリンピックの開催年に当たり、予選会は6月2日・3日に玉川プールで行なわれた。この予選会を目指して選手達はYMCAに、東大タンクに、墨田プールに、大阪では茨木プールに早春から練習を始め、5月始めには屋外プールで泳ぎ始めた。代表選手選考委員25名の中に野村憲夫、本井 巧、斎藤巍洋が名を連ねている。残念ながら、本大会には立教から代表選手を出すことは出来なかった。アムステルダムでは鶴田義行選手の200m平泳優勝を筆頭に3本の日章旗を揚げ、出場選手全員が10位以内に位置する活躍を見せ、水泳日本の実力を遺憾なく発揮したといえよう。日本学生は、オリンピックから帰着したばかりの学生選手も参加して9月22日・23日芝プールで開催されたが、高石をはじめ4人のオリンピック選手を擁する早大が93点を挙げて優勝した。

  立教は50m自由形、松浦武雄が優勝(28秒4)、200m平泳、渡辺寛二郎が2位と頑張り、得点19点を挙げ団体5位となった。当時、朝日新聞記者田畑政治の発案で、アムステルダム・オリンピックの優勝選手を招待して国際水上が開催された。招待選手は100m自由形の勝者ワイズミュラー(米)、1500m自由形のアルネ・ボルグ(瑞)、平泳のラデマヘル(独)、背泳のラウファ、ワイヤット(米)、女子飛び込みのミニーで、世界のトップスイマーを集め得たことは一大壮挙であった。東京は10月13日・14日、大阪は10月21日であった。シーズン・オフにもかかわらず大会は未曾有の人気で、玉川プールの仮設スタンドは超満員に膨れ上がった。大阪大会では松浦武雄が100m自由形で3位、400m・100m平泳で渡辺寛二郎が3位に入っている。


昭和4年:

 アムステルダム大会が成功のうちに終わり、国際水連(FINA)に加盟した日本水連は国内統括団体として、規約改正を行ない各地方加盟団体、学生水連からそれぞれ代議員を出すこととし、名称も「日本水上競技連盟」と改め、理事の定数を5名に増やした。この時、野村憲夫は理事に選出された。アムステルダム大会以後、日本の水泳熱は高まる一方で、それまで東京では芝公園プール、玉川プールなどを使用していたが芝公園は観客収容能力が不足し、玉川は交通の便に難があった。そこで神宮外苑にプールを建設、水泳の殿堂にしようとする計画が立てられ、鳩山文相を建設委員長に募金に着手した。募金には大変苦労したが、昭和5年3月に着工の運びとなった。

  日本水連にとっては創立以来の大事業であった。この年、日本選手権は8月3日・4日、玉川プールで開かれ、明大が平泳の鶴田選手を筆頭に大活躍した。立教は、50m自由形に松浦武雄が28秒8で3位、200m、400m平泳では中村秀吉がそれぞれ、3分05秒6、6分32秒6で泳ぎ2位、渡辺寛二郎は400m平泳に3位(6分41秒1)の活躍を見せた。翌月、9月14日・15日に開催された日本学生では、松浦武雄が50m自由形に優勝。200m平泳で中村秀吉3位に入り、団体も得点19点を挙げ4位となった。余談だがこの年、清水 実、白都定義が卒業し、清水は後年「清水みのる」の名で作詞家として世に出て戦前、戦後を通じて歌謡界で活躍する。

  昭和14年「島の船唄 唄:田端義夫」「旅のつばくろ 唄:小林千代子」、昭和15年「別れ船 唄:田端義夫」、昭和21年「星の流れに 唄:菊地章子」、昭和22年「帰り船 唄:田端義夫」、昭和30年「月がとっても青いから 唄:菅原都々子」など、数々の名曲を残し、今もまだ歌い続けられている。


昭和5年:

 神宮プールは3月27日着工、5月25日完成する。全国の水泳選手の憧れの神宮プール、水泳日本のメッカの完成である。緑の森の中に聳える飛び込み台を備え、タイル張りの見事さはまさに殿堂と呼ぶに相応しい容姿であった。そして新装成った神宮プールのこけら落としが、第9回極東大会となる。大会は、5月28日から4日間行なわれた。日本チームは断然強く、各種目に1位・2位を占めたが、200m平泳だけは常勝、鶴田がイルデホンゾ、ジキルムに敗れる番狂わせとなった。日本学生は、9月21日・22日、初めて神宮プールで行なわれた。大会では関口正三郎が100m自由形5位(1分06秒6)、200m平泳で中村秀吉が6位(3分05秒4)、800mリレーも4位(関口・松浦・上野・根上)となって、立教は団体5位に終わる。尚、関口は後年の銀幕の大スター「佐野周二」の若き日の姿である。関口はその重厚な演技で人気を得て、晩年まで映画界で活躍する。

昭和6年:

 昭和6年の水泳界は、第1回日米対抗の日本開催で全国を湧かせた。日本水連からの呼び掛けで来日した、キュッパス監督率いるアメリカチームは文字通りの精鋭チームである。水連は、日本橋白木屋で日米水上展をやり、日米どちらが勝つかアンケートを行なったところ、3000対2000で日本の勝ちとの結果であった。こうしていやが上にも盛り上がり、大会当日には13000席のスタンドは3日間とも超満員となった。 大会は、8月7日から9日まで開催されどのレースも大接戦となり、100mから400mまでの自由形、背泳2種目はアメリカが優勝し、日本が余裕をもって勝てたのは1500m自由形のみであった。総点数では40対33で日本が勝った。本大会には、立教からの出場者が出なかったことは残念であった。

  この年、日本学生は9月18日〜20日神宮で行なわれ、200m自由形に松浦武雄が2分24秒2で3位となり、得点12.5を挙げて団体は4位となった。10月2日から3日間行なわれた日本選手権は、神宮大会を兼ねロサンゼルス・オリンピック候補を選ぶことになった。従って、シーズンオフに近かったにもかかわらず好記録が続出し、100m自由形に宮崎康二が、200mは横山隆志が勝って高石勝男の日本記録を塗り替えた。大正12年から9年間に亘って自由形に君臨した高石の役割は終わり、新しい世代に引き継がれていく。


昭和7年:

 前年に決定したオリンピック候補選手達は、暮れから正月にかけて2週間、3月から4月にかけて3週間、YMCAに合宿して冬季練習をし、第2次予選会に臨んだ。このオリンピック代表には立教から代表を出すことは出来なかったが、役員(マネージャ)として野村憲夫が名を連ねた。一行は6月23日、30日の組に別れて出発し7月9日ロサンゼルスヘ到着。8月6日の水上競技の開始を待った。大会では男子チームは400m自由形で米国が勝ったが、他の種目は日本が圧勝し、特に100m背泳は清川、入江、河津の3選手がセンターポールを独占する大活躍を見せた。ロサンゼルス・オリンピック大会後、各国から日本選手の招請があり日本は世界水泳界の頂点に立つと同時に、焦点となった。

  この年、第11回日本学生は、9月23日〜25日神宮プールで開かれ、オリンピック参加学生がこぞって参加し覇を競った。立教は50m自由形で松浦武雄が28秒2で5位。800m自由形に根上 博が10分30秒2で6位。100m平泳に中村秀吉が6位。200mリレー(根上・由本・関口・松浦)に1分53秒4で5位。800mリレー(根上・田野・関口・松浦)に9分54秒8で4位。立教は得点13点を挙げ、団体5位となる。日本選手権は同じく神宮プールで9月23日〜25日の3日間に亘って行なわれ、後年、立教へ入学し、大活躍する新井茂雄(静浦)が100m自由形に1分01秒6で優勝、また200m自由形に2位となり注目された。


昭和8年:

 前年のロサンゼルス・オリンピックにおける日本チームは、文字通り世界水泳界制覇という偉業を達成し、国内外で注目を浴びた。特に、国内の水泳熱はいやがうえにも盛り上がり、国民の人気スポーツとなっていった。この年立教大学水泳部にあっては、かねてより念願の専用プールの建設が実現する。昭和4年に水泳部部長に就任した、阿部三郎太郎先生は「プール建設は自分にかせられた重大な責務であるとなし、これが実現に日夜努力していたが、ついに実を結び協力者同部先輩本井氏を得て具体化し、金3万円をもっていよいよ長崎野球グラウンド隣接地に建設すべく、今月12日頃総長を迎えて定礎式を行うまでに至った。まず、3万円のうち1万円は校友によって得、残りの2万円は阿部部長と本井先輩の奔走で責任もって集めることになり、以来東奔西走、努力をしてきた…。」(昭和8年3月8日 立教大学新聞より)「資金2万円については銀行から借入ることとし、阿部先生、野村憲夫他諸先輩が保証人となって調達した。

  「そしてその返済には夏期のプール公開による収入を当てることとした。また合宿所は学校の廃材で作られた。」(平成2年9月26日付 OB会長あての野村先輩の手紙から)定礎式は予定通り3月12日に行なわれ、6月24日に立教プール開き開催の運びとなり、当日は来賓、関係者が集まって華やかな一大イベントとなった。午後1時から式典、午後4時から立教対横浜外人の水球戦が行なわれたが、7対1で外国人チームが勝ちを収めた。

 このプールの完成を誰より喜んだのは、この日まで大変な苦労と努力をしてきた阿部部長、本井他諸先輩、学校関係者はもとより練習プールの確保に苦労していた現役水泳部員であったろう。「YMCAプールで練習をやっていた水泳部員は、新しく房総中学の本田君、大網中学の鶴岡君等、東部日本の中等水泳界の覇者を加え二重の励みを以て日本水泳界に臨むんだと元気なところを見せている。」と、立教大学新聞は当時の様子を伝えている。

  プールの完成によって練習環境は整備され、当時は他大学の選手も練習に来てまるで合同練習のようであった。こんな環境の中で選手同志が競い合い、切磋琢磨し腕を磨いていった。一方、日本水泳連盟は翌年マニラで開かれる極東大会が、従来通り日中華三国の参加による大会では意義が少いとし、参加国の範囲を広げ、アジア選手権大会に改造することをフィリピンに提案することになった。そして、この提案をマニラで行なうことを条件に極東大会に参加する方針を決定。本年度の日本選手権を代表選考の第1次予選会とすることになった。

  日本選手権は、8月12日〜14日、神宮プールで行なわれ、ロサンゼルス大会の後を受けて好記録が続出した。本田惣一郎は、1500m自由形に出場し、北村久寿雄(高知商)、牧野正藏(稲泳)に次いで3位(19分39秒6)に入り代表選手に選ばれた。また、第12回日本学生は9月15日〜17日の三日間神宮プールで開催され、800m自由形に根上 博が10分30秒2で3位。100m平泳に中村秀吉が4位(1分21秒8)、200mリレー(関口・由本・遠藤・根上)5位。800mリレー(田野・関口・藤岡・根上)も5位に入り、立教は総得点13点で、慶応と同点の4位となった。この年、昭和3年から7年まで日本学生のNO.1スプリンター、松浦武雄が卒業する。


昭和9年:

 マニラの第10回極東大会を中心にシーズンの幕を開けた。競技は5月16日から新しく設けられたリサール・プールで、日・比・中華・インドネシア4か国の参加で始まった。日本は予想通り、自由形と背泳に3位まで独占。50m自由形を除き4位もあまさず獲得したが、平泳はイルデホンゾ(比)が日本平泳陣をおさえて優勝した。1500m自由形に出場した本田惣一郎は、牧野正藏(19分45秒2)に続き、19分48秒0で2位となる活躍を見せた。この極東大会の際に、満州国の参加し得る東洋大会に改めることが決定し、中華はこれに反対し脱会した。この東洋大会は開かれることなく戦争に引込まれていった。大正2年に開始された極東大会は、日本スポーツ界に大きな役割を果たしたが、この第10回で終止符が打たれた。

  この年の日本選手権は、アメリカからメディカ、ハイランド、バンデウェーを招いて、8月11日〜13日神宮プールで行なわれた。日本選手は極東大会の疲れから、全般的に低調で、根上 博(立大)が1500mの途中1000mに世界新記録を出した他、目ぼしい活躍がなかった。極東代表の不振をよそに第一線に躍り出た根上は、北海道余市中学時代から泳いでいたが、立教に入ってから、それも卒業近くに急激に強くなっていった。根上は1500mで牧野、メディカを押さえ、19分16秒6の好記録で優勝。1000mの正式計時は、12分41秒8の世界新記録であった。根上は400m自由形でも3位に入る活躍をみせ、一躍日本長距離陣のスターダムへのし上がった。

  第13回日本学生は、9月14日〜16日神宮プールで開催され、根上 博は400m自由形(4分47秒0)、800m自由形でも牧野正蔵に続き2位となったが800mの10分08秒4は世界新記録であった。本田惣一郎は400m自由形(5分04秒8)、800m(10分18秒5)は共に5位。800mリレー(鶴岡・田野・本田・根上)は4位で9分27秒6。立教は、総得点18点を挙げて団体5位であった。北海道水泳連盟50年史によると「大正年代から昭和にかけて、北海道水泳界は中央からコーチとして松沢一鶴、高石勝男、森 豊、斎藤巍洋、木村象雪の日本の第一線の選手を招いて進んでその指導を受けたことにより、素晴らしい躍進を遂げ、北海道の選手が全国を制覇することとなったのである」とある。

  このことから、松浦武雄(北中出)、余市出身の根上 博が立教へ進んだのもコーチとして来北した斎藤との出会いの縁を察することができる。この年、斎藤は大阪から東京へ転勤になると立教大学水泳部の監督兼コーチとして後輩の指導に当たり、いよいよ立大水泳部黄金時代が築かれていく。

 


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