■立教大学体育会水泳部の歴史-4
●大正10年〜大正15年:誕生期 ●昭和41年〜昭和50年:変遷期
●昭和元年〜昭和9年:黎明期 ●昭和51年〜平成15年:復興期
●昭和10年〜昭和20年:黄金期 ●平成15年〜平成22年:飛躍期
●昭和21年〜昭和40年:戦後復活期

●昭和21年〜昭和40年:戦後復活期

昭和21年:

 日本水連では、4月に代議員会を開き、藤田 明専務理事以下役員の陣容を固めた。加盟団体も府県ごとの水泳団体が促進され、朝鮮、滿州、台湾などが減ったにもかかわらず、年内に戦前の39団体をしのぐ45団体の加盟を見た。また、全国学生水上競技連盟を加盟団体から水連の内部組織とし学生水上部会とし包含する変更も行なった。戦後の復興気運が高まるにつれ、スポーツ界の復興も足早であった。日本体育会が「スポーツにより、国民、特に青少年に健全娯楽と希望を与えよう」と乗り出しオリンピック復帰も話題に上るようになった。

  戦後、水上競技の幕開けは7月7日東伏見の早大プールで開かれた「第18回早慶対抗水上戦」であった。この競技会には前触れなしに皇太子様が来られ、白帽、白シャツで大人達の中にポッンと立って見られていた。戦後となってまさに時代が変わった象徴的な出来事であった。1週間後の16日には、碑文谷の日大プールで日立明3大学水上が開かれた。日大の古橋廣之進が400m・800m自由形に登場、これに優勝し、日大のために点を稼いでいるが、日大は、これに続く選手の足並みが揃わず、立教が戦後第1回の3大学を制し優勝、日大は明治に次いで3位であった。立教は太田光雄、岩合 傳、白山勝三、杉山祐二らが、ぞくぞく復員、復学して東長崎のプールへ帰って来た。伝統ある立教大学水泳部の戦後復活の時である。

  競技会では100m、200m自由形優勝太田光雄(1分03秒3・2分24秒4)、200m平泳優勝杉山祐二(2分59秒4)、800mリレー優勝(10分28秒8)、300mメドレーリレー優勝(3分47秒0)、得点は立教58点、明治54点 日大38点であった。古橋氏は後に日経新聞の「私の履歴書」の中で当時の事に触れ次のように語っている。「すでに明大と立大は戦前から泳いでいた連中が復員しており、強い顔ぶれが揃っていた。立大には高知商でならした岩合 傳や太田光雄がいた」。この年、復活最初の日本選手権は8月9日から3日間、宝塚プールで開催された。まず100m自由形に1分02秒2を出した太田光雄が優勝、本田武次も3位(1分03秒2)に入った。200m自由形は白山勝三が優勝(2分22秒6)を飾った。400m自由形は優勝古橋(日)4分53秒8、2位村山(早)4分55秒2に続き岩合 傳が4分56秒4で3位を占めた。

  戦後の混乱の最中で国民全てがその日を生きるために食べ物を求めて歩いていた時代の遠征は、大変な苦労であったろう。宿に泊まるにも自分の食べる食料は持参せねばならず、列車は超満員、煤煙と汗で顔も真っ黒。その上大阪まで15、6時間もかけての移動は現在から考えると想像を絶する事である。その忍耐は若さと何より選手権に出て泳げるという喜びではなかったろうか。9月7日・8日、日本学生が、昭和17年の第21回大会から3年の空白を経て、日大プールで開かれた。太田光雄は50m(28秒0)・100m(1分02秒21)の自由形を制し優勝、200m自由形は岩合 傳が2分14秒4で優勝、白山勝三が3位(2分23秒4)に入る。

  400m自由形では古橋(日)と岩合の競り合いとなり、4分48秒6で古橋が制し岩合は惜しくも敗れたが4分49秒8の好記録であった。200m平泳は杉山祐二が2分54秒2で2位に入った。200mリレー3位、800mリレーは2位と頑張って、得点は早、日に次いで3位であった。 記録も向上してきたが、当時のカボチャや薩摩芋が食事といった食糧事情から、選手はほとんど栄養失調状態であったことを考えると、この気力と記録には敬服するばかりである。


昭和22年:

 シーズン初めの3大学では、日大が前年の雪辱を果たした。この年の日本選手権は進駐軍に取り上げられていた神宮プールの使用許可を得て、8月7日から4日間神宮気分の中で開かれた。水泳人にとっては、久し振りに我が家に帰った思いであった。競技では太田光雄が100m自由形に1分00秒8で優勝。前年に続き連覇を果たした。また、杉山祐二も200m平泳で2位(2分51秒0)と健闘した。また、古橋(日大)は400m自由形に4分38秒5の日本新記録で優勝した。

  この記録は、当時の世界新記録を超えていたが、日本水連が国際水連に加盟出来ていなかったので公認にはならなかった。戦後最初に生まれた日本新記録は世界新記録であった。当時、戦後の暗いニュースに取り巻かれていた国民にとっては明るく希望を与えてくれたビッグ・ニュースであった。日本学生は、9月5日〜7日の3日間神宮プールで開かれたが、古橋の活躍がマスコミを動かし、会場の神宮プールは満員の盛況、貴賓席には皇太子殿下始め宮様方もお出でになった。レースでは50m自由形に太田光雄が27秒2を出して優勝。100mは太田連勝ならず2位(1分01秒2)となる番狂わせとなった。200m平泳は杉山祐二が頑張りを見せ、2分49秒0で優勝する。200mリレーは日・早に次いで3位となつて得点は25点を挙げたが、団体は4位に終わった。


昭和23年:

 この年にハワイから水泳選手数名を招きたいと希望があった。これに応じるには国際水連復帰が先決だ。そこで水連は国際水連へ意向を聞いたところ「日本は資格停止になっているので、復活手続きをするように。7月にロンドンで国際水連会議があるからそれに諮ることにする」という意見が外電で持たらせられた。3月15日のことであった。

  この年、オリンピック大会はロンドンで開かれることになり会期は7月29日からになっている。復帰の手続きをしている間に大会は始まってしまう。従って、このオリンピックに選手派遣は無理なことがはっきりした。そこで期を同じくして日本選手権を開いて、日本選手の実力を試そうということになった。 日本選手権は、ロンドン大会の始まっている8月5日から4日間、「ロンドン大会に挑む」と題して神宮プールで開かれた。大会は第1日目から活気を呈し、古橋は第2日目の1500m自由形決勝で18分37秒0、橋爪も18分37秒8の驚異的世界新記録を出した。

  因みに、ロンドン大会のマクレーンの優勝記録は19分18秒5であった。立教勢では杉山祐二が100m平泳3位(1分18秒0)、200m平泳2位(2分50秒2)と1人、気を吐いた。この年の日本学生は、プール難のため阪神電鉄の協力を得て、甲子園プールで開かれた。競技では杉山祐二が、100m平泳に1分18秒0で2位、200m平泳は2分19秒6で日大の宇田を抑え、優勝した。得点は10点を挙げ、6位に終わった。


昭和24年:

 この年6月に日本水連の国際水連への復帰が認められ、世界水泳界にまた仲間入りすることになって、いよいよ国際競技のチャンスが訪れた。ハワイから8月に数名の選手を派遣して欲しいと招請があった。この年の全米水上は、8月15日から4日間ロサンゼルスで開かれる。出来るならこの大会にも参加したい、と田畑会長以下が奔走した結果これが具体化した。日本選手権は全米水上への派遣選手の選考を兼ねて、7月21日〜24日神宮プールで開かれた。

  国際水連への復帰最初の全日本である。7月22日には、両陛下がプールにお出でになった。日本選手権での立教水泳部は、戦後活躍した白山、太田、岩合らが卒業して、残念ながら3位以内に入賞者を出すことが出来なかった。日本学生は9月9日から3日間神宮プールで開かれたが、100m自由形に仲村武平が1分01秒0で4位、200m自由形でも2分15秒6を出して5位となる。100m平泳は山田芳美が5位(1分16秒2)、200m平泳も山田が2分48秒2で泳ぎ3位、杉山祐二は不調であったが2分50秒0で6位に入った。200mリレーでは仲村、天野、鈴木、井上のメンバーで4位(1分51秒6)、800mリレーは仲村、天野、曽我、鈴木が9分26秒6と頑張って4位に入った。

  その結果、得点18点を挙げて団体5位になる。国際復帰を目指すため、日本はあらゆる情報網を生かして世界水泳の動向を知ることが出来たが、昭和22年国際水泳連盟が次のことを決めていた。1:男子の水着は女子と同じ形だったものをパンツで許可する。2:平泳の場合、バタフライで泳いでも良いが、途中オーソドックスに変えることは出来ない。逆のことも同じ。物資不足の日本は水着に苦労した。

  このころは木綿の水着が主流を占め、男子は幅約20cmの6尺フンドシで練習をし、競技会ではその上にパンツをはいて泳いだ。パンツはそれほど貴重なものであった。全米水上では古橋、橋爪らが大活躍をし、9つの世界新記録で飾り世界中を驚かせたが、会場のロサンゼルスプールは、かって、日本が男子6種目中5個の金メダルに輝いた思い出のプールであった。観客の中に混じって、戦争中苦労を重ねた邦人たちが日の丸の旗を振って応援した。戦勝国アメリカで敗戦国日本の日の丸が振られるのは、当時としては画期的なことであった。米国人は古橋のこの活躍を「フジヤマの飛魚」と呼んで絶賛した。

昭和25年:

 日本選手権は、8月4日開催を決定した。昭和10年の「第2回日米対抗」以来の代表選手選考を兼ねて、7月22日から4日間、神宮プールで行なわれたが、立教からは代表選手を出すことは出来なかった。根上の活躍した第2回対抗戦を思うにつけ、現役にとっては残念であったことと思う。対抗戦は米国46対17で日本の負けとなった。 この年の日本学生は、9月17日〜19日神宮プールで開催され、仲村武平が100m自由形で5位(1分00秒4)、次いで200m6位(2分16秒0)に入り、山田芳美が100m平泳に3位(1分13秒8)に入賞。200mリレー3位、800mリレー(田中、曽我、井上、仲村)も4位と健闘し、得点16点を挙げ、団体4位に順位を上げた。

  この年の日本高校で、100m背泳3位(1分14秒8)となり、27年入部する大久保憲二の名が残っている。また、水泳連盟では定例代議員会を開いて理事の改選を行ない、立教関係では根上 博が常務理事に選任された。戦後5年を経ても、まだまだ物資不足、食糧不足、物価高は続き国民生活は苦しみの連続であった。この年の6月、朝鮮戦争が勃発し以降はいわゆる軍需景気に支えられた形で日本経済も活気を取り戻していくが、スポーツも盛んになっていった。


昭和26年:

 翌年に迫ったヘルシンキ大会に備え、水連は動き出し、正月を挟んで高校、大学の若手有力選手を集め、東大室内プールとYMCAプールで強化合宿練習を行なった。3月にニューデリーで第1回アジア大会があり、水泳の参加も要望されたが、試験期にぶつかるのと、シーズンオフで充分の練習ができないという理由で参加しなかった。オリンピック候補選手を選ぶ日本選手権は、8月10日から3日間大阪プールで開催された。

  立教水泳部からは残念ながら3位以内の入賞者を見ることは出来なかった。この年の日本学生は、9月14日〜16日まで神宮プールで行なわれ、50m自由形に田中 武が27秒6で4位、続いて100m自由形でも1分00秒6で5位に入った。平泳の山田芳美は100mを1分13秒2で4位、200mも2分46秒0で5位に入った。200mリレーは田中、天野、井上、仲村が頑張り、1分50秒6を出して3位。800mリレー(仲村、松山、井上、田中)も9分24秒6で5位なる。その結果得点16点を挙げ、前年と同じく団体4位で終わった。日本高校選手権では、翌年立教へ入学する井原 孜が100m自由形で3位に入っている。水連ではシーズンの終わった10月末に、34名のオリンピック候補を追加した。その中に田中 武が入った。


昭和27年:

 オリンピックの年になり、候補選手は冬季、春季の2回にわたって東大、YMCAで合宿合同練習を行なった。オリンピック最終予選はこの年の日本選手権とし、その前に候補選手以外に機会を与える全国予選会を、6月14日・15日神宮プールで催した。この予選会では、この春入学した井原 孜が200m自由形で1位(2分16秒2)、200m平泳には藤家 衛が2分40秒0で泳ぎ、1位となった。100mも1分10秒6の日本新記録で泳いで2位に入り、にわかに注目された。

  日本選手権は6月20日〜22日神宮プールで開催された。200m平泳で予選、準決勝を順調に勝ち進んだ藤家 衛は、決勝を前にして不運にも体調を壊し、40度の熱を押してレースに臨み、180mまでトップを守ったが、ついにオリンピックへのキップを手にすることができなかった。残念ながら立教から戦後初のオリンピック大会への代表選手を送り出すことは適わなかった。

  16年ぶりに参加したオリンピックは、予想に反し3種目に2位だったが、金メダルは1つも取れず、従来の戦績に比べ低調であった。藤田総監督は、その報告の中で若い競技者の開発、強化施策の確立、国際訓練の実施、室内プールの拡充を挙げている。この年の日本学生は、9月12日〜14日神宮プールで開かれた。50m自由形に田中 武3位(27秒6)、50m背泳では大久保憲二が4位(32秒4)、藤原哲則6位(32秒8)、100m背泳には大久保が1分11秒0を出して3位に入る。日本選手権で不運をかこった藤家 衛は、100m平泳で1分10秒2の日本新記録を出すも、田中(早大)に次いで惜しくも2位となる。200m平泳には藤家が3位(2分36秒)と力泳を見せた。200mリレー(木村、曽我、井原、田中)は1分48秒2で3位。800mリレー(木村、井原、田中、和田)も9分07秒6の記録で5位に入った。

  得点は27点を挙げて早大、日大に次いで3位に躍進する。この年の新入部員は、藤家、大久保、井原、木村、野末、藤原ら、前年高校の一線級の選手を補強して、水泳部全体が活況を見せていた。また、日本高校では、広島から上京して立教高校に入った細間輝喜が活躍。100m・200m自由形に1分00秒8・2分14秒0で2位。後年、立教へ入る金谷雅弘(田辺)が400m自由形4分51秒8、1500m自由形19分42秒2で2種目に2位。清水 健(高崎)も100m自由形1分01秒2で3位となっている。

  この時代、根上 博が監督、太田光雄、山田芳美がコーチ、それに川田友之らが、プールへも殆ど毎日、誰かが顔を見せて指導し、練習を見守っていた。また、高校第一線級の選手が集まったのも根上、太田等の先輩、現役マネジャーの熱心な勧誘の成果に他ならない。細間のケースでは河野マネジャー(27年卒)が3日間、泊まり込んで父親と酒を酌み交わし説得したと聞く。マネージャの重要な仕事の1つは勧誘であった。


昭和28年:

 日本水連では昭和28年2月の代議員会で役員改選を行ない、ヘルシンキ大会に鑑み「日本水泳再建」の意気込みでプランを練った。新役員は会長田畑政治、理事長制を設け、理事長藤田 明を選任する。立教からは幹事渡辺寛二郎、常務理事の中に川田友之、根上 博が任命された。この年の3月、フィリピンから招かれ、橋爪他3名と根上 博を監督とする少年チーム4名が渡比した。

  この少年チームの中に細間輝喜(昭和34年卒業)と鈴木高行(昭和38年卒業)が入っている。日本選手権は、7月30日から4日間神宮プールで開かれた。この大会にはヘルシンキの優勝者コンノ、背泳のオヤカワ、それに豪州のヘンリックスが招かれた。ヘンリックスに迫ったのは、100mで古賀 学、200mで細間輝喜の高校新鋭であった。ヘンリックスは前半飛び出し、細間が後半追い込んだが、追い付けなかった。細間は200m、2分12秒0を出して日本の大学生を抑え、ヘンリックスに1秒遅れの2位と頑張った。

  100m背泳では、大久保憲二が1分10秒4で3位と健闘する。日本選手権に続き、8月5日・6日、大阪国際大会が行なわれ、これに出場した藤家 衛は200m平泳で2位となる。日本学生は、9月11日〜13日神宮プールで開催され、まず、50m自由形で田中 武が4位に入り、大久保憲二は50m背泳を32秒2、100m背泳は1分10秒8で泳ぎ、共に3位に食い込んだ。200mリレーは木村、井原、加藤、田中で1分49秒0を出し3位。800mリレーも木村、和田、田中、井原が9分09秒0で6位に入る。

  得点は16点を挙げ、団体は5位に終わった。バタフライ禁止にあった平泳は、混乱期にあり、水準は戦前よりはるかに落ちた。カワズ足のバタフライをやっていた藤家にとつては、これも不運であった。この年の日本高校では、200m・400m自由形に出場した細間(立教高校)が、2分12秒8・4分47秒4で優勝。金谷雅弘(田辺高校)も400mを4分52秒0で泳ぎ、細間に次いで2位に入っている。


昭和29年:

 フィリピンでは、5月のアジア大会がマニラで開かれる前奏として、1月の比島選手権に日豪選手を招いた。日本水連では、根上を監督に5選手を派遣した。 第2回アジア大会がマニラで開かれるについて、第1回に参加しなかった水泳は大挙参加することになった。日本チームは、4月30日チャーター機でマニラへ出発した。男子競泳は参加全種目に勝ち、アジアNO.1の貫禄を示した。

  立教からは、残念だがこの大会に参加出来なかった。この年、ハワイから招待があり6月13日に神宮プールで予選会を開き、各種目の優勝者6名を代表に選んだ。立教からは、高校生の細間輝喜が200m自由形に2分10秒4で優勝し代表となった。ハワイ招待は、7月7日〜10日ワイキキで開かれ、200m自由形に出場した細間は、ウールジー、コンノに破れ3位となったが、2分10秒2と記録を伸ばした。

  日本選手権は、8月12日〜15日神宮プールで開催された。本大会にはアメリカからクリーブランド、ウールジー、コンノ、バタフライのファジェン、デンマークからグライエ(平泳)が招かれていた。この年から独立種目となったバタフライに出場した藤家 衛は、200mに2分38秒2を出して3位に食い込んだ。大阪国際でもファジェン(米)を抑え、ドルフィンキック・バタフライで世界の頂点に立った長沢二郎に次いで、2位となっている。

  日本学生は、9月10日〜12日神宮プールで行なわれ、50m自由形に木村 正が2位(27秒0)、100m背泳では野末俊夫が1分10秒4で4位に入った。200mバタフライは、藤家が2分41秒0で5位となった。本来、平泳をやってきた藤家にとって、カワズ足からドルフィンキックへの転向は意外と難しかったようだ。200mリレーは清水、金谷、柳瀬、木村の1年生が頑張って、1分47秒0を出して2位と大健闘。800mリレーも柳瀬、金谷、清水、木村のメンバーで5位(8分57秒6)になって、得点は17点を挙げて団体は5位であった。

  日本高校では、立教高校の細間輝喜が100m・200m自由形(1分00秒2・2分14秒6)を制し優勝。翌年、立教へ入る近藤至男(伊東高校)も、200mで細間に次いで2分15秒4で泳ぎ2位となった。

昭和30年:

 水泳連盟は、1月の定例代議員会で理事を改選、常務理事18名の中に川田友之、根上 博が再選された。ヘルシンキ以降、再建を掛け声として強化に努力してきた結果が現れ、新人群が出てきた。8月に日米対抗を行ない、アメリカに勝って弾みをつけてメルボルンへ持って行こうとする目標であった。選手強化については、1月4日から9日まで、横須賀観光ホテルのプールで冬季合宿練習をした。

  新鋭選手を網羅する大きな合同練習であつた。参加者は立教からコーチに太田光雄、選手には清水 健、細間輝喜(立教高校)、それにこの春入学することになる近藤至男(伊東高校)が参加した。日米対抗に出る選手を選ぶため日本選手権は、7月21日から4日間、神宮プールで開催された。立教勢は残念ながら選考に漏れてしまった。日本チームには根上 博が監督に、太田光雄がコーチとして参加することになった。8月5日、日米対抗の人気は相変わらずで、超満員。会場に入りきれないほどで、ダフ屋が現れ場外は騒然となった。選手に割り当てられたキップも1日3枚、プロ野球が水泳競技会の日程を避けて試合を組むほど、水泳人気が絶好調の時代でもあった。

  対抗戦が始まってみると、どの種目も予想以上の接戦を展開、結局44対35の差で日本の勝ちになった。この年の日本学生は、9月9日から3日間神宮プールで開催され、50m自由形に木村 正が27秒2の記録で3位に入り、弟の木村 靖が兄と同タイムで4位となった。100m・200m自由形は清水 健が58秒6・2分11秒8で泳ぎ、ともに5位に入る。50m背泳では野末俊夫が31秒4を出すも5位、100m背泳も野末は1分10秒0で6位に入る健闘を見せた。200mリレーは木村 靖、清水、金谷、木村 正が1分47秒0で、早、日に次ぎ3位に入った。

  800mリレー(金谷、清水、近藤、柳瀬)は、8分58秒8で5位に入った。高校短距離で活躍し、期待されていた1年の細間は急激な不調に陥る。当時のことを思い起こすと練習不足ということではなく、むしろ泳ぎ過ぎではなかったか、細間は昼間の練習に飽き足らず夜も泳いでいた。表面には見えない一寸したフォームの崩れがあって、過労と重なって泳ぎを崩していったのではなかろうか。藤家もまた、平泳、バタフライ、ドルフィンキックと泳法が変化していく中で、最後の学生水上を飾ることが出来なかった。

  この頃の世相、国民生活はかなり改善され落ち着いてきていたが、水交寮では夕飯の後には大半の部員がその足で近所のパン屋に駆け込み、パンと牛乳を胃袋に流し込んでいた。また、水交寮には豆腐屋が来ていて、皆争って豆腐、納豆を買い求め麦飯と味噌汁(シーズンオフはコッペパンと味噌汁)の朝食を補給するといった具合で、30余名、皆が腹を空かしていた。また、1年生の仕事は、交替で、1日3食の配膳と食器洗い、室内・便所掃除、布団の上げ下ろし、マッサージで、特に昼食の準備には学校からトンボ帰りをしなければならなかったし、とかく忙しかったが、水交寮は賑やかで活気に溢れ楽しいところであった。


昭和31年:

 前年、日米対抗を制した日本のオリンピックでの希望が膨らむシーズンの幕開けである。オリンピック開催地メルボルンは南半球にあり、日本にとっては、オフシーズンの11月に始まるとあって、盛夏の調子維持が問題となった。水連は新春に監督として小池礼三、コーチに太田光雄を決め、対策を練った。選手の選出は8月の日本選手権の結果、それに9月の日本学生の終了後選手を追加し、10月から3次にわたる仕上げ練習を行ない現地に乗り込むことにした。また、女子コーチに根上 博、飛込コーチに小柳富夫、マネジャーに古橋廣之進を決定した。

  代表選手として立教から自由形短距離の清水 健が選ばれた。メルボルンでの日本は、金1、銀3、銅1に終り、日米を抑えて地元オーストラリアが、金4、銀3、銅2を獲得した。日本選手権は、8月10日〜12日神宮プールにおいて、オリンピック予選会を兼ねて開催された。レースは接戦の割に記録は伸びなかった。男子は、バタフライの石本(日大)が100mに1分03秒0の日本新記録。女子で7種目に日本新記録が出た。立教からは清水 健が200m自由形で3位(2分10秒8)に入った。

  日本学生は、9月7日〜9日神宮プールで開催され、立教勢では200m自由形で金谷雅弘が2分10秒8のタイムで2位、400mでも4位(4分42秒8)と大健闘した。 清水 健は100m自由形3位(58秒4)、200m自由形5位(2分12秒8)。50m自由形では近藤至男が27秒2で6位に入った。専門の自由形中距離がスランプにあった細間輝喜は100mバタフライに出場し、1分06秒8で4位に入る頑張りを見せている。平泳は豊池 守が100m6位(1分14秒0)、200mは木村 靖が2分43秒7で6位に入った。200mリレーは清水、樋口、近藤、金谷が1分47秒0で4位。最後のレース800mリレーでは、清水、近藤、杉岡、金谷が8分43秒6を出して、早大、中大を押さえて見事優勝を飾った。得点は30点を稼いだが、明大の31点に次ぎ5位に終った。早大は、平泳に大量点を挙げた日大に王座を譲り、日大の優勝は6年振りで日大は第2期黄金時代に入る。


昭和32年:

 日本水泳連盟では役員改選を行ない、立教から常務理事として太田光雄が選任された。この年の日本選手権は、8月16日〜18日神宮プールで行なわれ、豊池 守は平泳100mで2位と同タイムで3位(1分15秒6)、200mはNO.1の古川(日大)を脅かし、0.1秒差で2位(2分43秒8)となった。前年、平泳の規則が改正され、スタート、ターンの際の1掻き以外頭の1部が水上から隠れてはいけないことになり、潜水泳法は規則違反となったことから、記録は後退した。日本学生は、9月6日〜8日神宮プールで開催され、100m自由形は清水 健が58秒8で4位、200m自由形では2分10秒6を出して2位。近藤至男も2分12秒5で5位に入った。100m平泳は豊池 守が1分15秒7で5位、200mも2分45秒0で泳ぎ4位に入った。800mリレーは山口、金谷、近藤、清水が頑張ったが、早大に次いで2位(8分48秒6)となり、残念ながら2連勝は果たせなかった。400mメドレー・リレーは川本、豊池、川添、金谷のメンバーが4分37秒4で6位となり、得点26点を挙げ、前年の5位から4位に上がった。

  昭和30年前後は、比較的に部員数も多く、従って試合のエントリーにも競争が激しかった。試合に出たくても出られない部員は随分悔しい思いをした時代であったが、それだけに、練習にも実が入り切磋琢磨して、チームとしても良く纏まった状態でもあった。プールサイドにはベンチに腰掛けて常に練習を見てくれた、当時の監督・コーチの根上、太田、山田、そして川田等の笑顔があった。昭和33年の第3回アジア大会が東京で開催されるに当たって、水連では来るべきローマ大会への第一段階として強化に努め、これに臨む方針を決定していた。 シーズン終了後アジア大会候補選手を決定した。その中に、立教から豊池 守が入り、後年、立教に入って活躍するバタフライの那須純哉(出雲高)も名を連ねる。

昭和33年:

 東京都では、戦後古橋選手などがロサンゼルスの全米水上に参加し大活躍したことを記念し、安井都知事がプール建設を言明していた。5月に行なわれるアジア大会水上のために、この記念プール建設を具体化し、工費6億3千7百万で千駄ヶ谷の旧徳川家から買い上げた東京都体育館隣接地に東京都屋内水泳場を建設した。完成は3月末で、競泳50m、飛込用25mと2900名収容のスタンドを持つ、ユニークなプールが出来上がった。そして5月10日・11日のアジア大会選手選考競技会から使用を開始した。

  アジア大会は、5月28日〜31日都屋内プールで開催され、立教からは代表選手は送り出せなかったが、太田光雄がコーチとして参加した。大会は女子競泳が400mメドレー・リレーの引継ぎに失敗、失格したのを除き、男女競泳・飛込・水球各種目の1位を占め、完全優勝の内容で成功のうちに終了した。この年の日本選手権は、8月14日から4日間神宮プールで開かれ、エンパイア・ゲームに出場したオーストラリア代表チームが帰国の途中参加し、賑やかな大会になった。 大会では、山中毅が200m自由形に2分03秒3の世界新記録を出して優勝。1500m自由形では、コンラッズに敗れたが17分56秒7の日本新記録で2位となった。

  立教からは、新入生那須純哉が200mバタフライに出場し、2分21秒7で3位に入った。日本学生は、9月5日〜7日神宮プールで行なわれ、100m自由形は近藤至男が3位(58秒8)。200m自由形に山口安司も4位(2分11秒2)と健闘した。200mバタフライには那須純哉が出場、2分25秒0で3位入賞。200m背泳は才野武士が2分32秒4で6位となった。200mリレーは新井、細間、近藤、山口が1分47秒4の記録で4位。800mリレーでは山口、近藤、那須、細間が8分51秒9で200mに続いて4位となる。400mメドレー・リレー(才野、平井、那須、近藤)も4分29秒8で4位に入り、その結果、得点は21点を挙げて団体5位となった。


昭和34年:

 日本水連では、1月の代議員会で理事の改選を行ない、87名に増員することとし常務理事に根上 博、太田光雄、山田芳美が就任した。日本水連では、都室内プールができたので、この年から屋内選手権を行なうこととした。大会の名称は、初代会長の名を取り、末弘記念選手権とし、第1回大会を4月11日・12日に行なった。男子はインターカレッジ選手が総出場し、盛夏シーズンに近い記録が出た。また、この大会で始めて個人メドレーが行なわれた。

  この年の日本選手権は、7月10日〜12日神宮プールで開催されローマ大会準備のための日米対抗戦の代表選手を、この大会の結果で選ぶこととした。 大会では那須純哉が200mバタフライに2分21秒1で優勝、久し振りにセントポールスイミング・クラブの声が神宮の杜に流れた。日米対抗の日本チームの監督には太田光雄が選ばれ、那須純哉が代表選手となった。日米対抗戦は、7月20日〜22日神宮プールで開かれ、那須純哉は200mバタフライに2分19秒3の日本新記録で泳いだが、トロイ(米)に次いで惜しくも2位となった。那須は100mバタフライでも、1分04秒9で5位に入った。

  対抗戦は日本41対38米国となり、東京大会は、日本が制した。続いて日米大阪大会は、7月25日大阪プールで開かれ、200mバタフライに那須純哉は2分17秒8の世界新記録を出したが、またもや、トロイに0.8秒の差で2位となった。大阪大会は、米国37対33日本で米国が東京大会の雪辱を果たした。この日米対抗の米国チームのマネージャを勤めた谷内洋一郎(昭和32年卒)は、米国チームのメンバーにプールへ放り込まれるという手荒い祝福を受けた。

  日本学生は、9月11日〜13日神宮プールで開かれ、那須純哉は200mバタフライに優勝(2分19秒7)、100mも4位(1分03秒0)に入り、名実共に200mの第一人者となった。また、200m背泳では才野武士が2分26秒4で2位に入り、100mにも1分08秒3を出して5位と頑張った。800mリレーは山口、北村、鈴木、山崎が8分55秒5のタイムで5位、400mメドレー・リレーは才野、豊池、那須、山口が4分24秒9で4位に入った。得点は22点で、団体5位を維持した。


昭和35年:

 ローマ大会の年になり、那須等、競泳候補選手は、前年11月、新年早々と2回の合同練習を行なった。日本選手権は、オリンピック最終予選会として7月22日から3日間、神宮プールで開かれた。立教のエース那須純哉は100m・200mバタフライに出場し、1分02秒5・2分18秒9でともに3位となった。また、200m背泳には才野武士が頑張って、これも3位(2分26秒5)に入った。

  大会が終った7月24日、代表選考委員会が開かれ、その結果、那須は選に漏れて立教からの代表を出すことが出来なかった。代表役員には太田光雄がコーチに決定した。大会では日本は、銀3、銅1に終り、ローマに金メダルを逸した。この年の日本学生は、9月9日〜11日神宮プールで開催され、100m背泳に片岡輝男が1分07秒4で2位。200m背泳では才野武士が活躍し2位(2分28秒6)に入る。200mリレーは清水、戸崎、林、山口が1分48秒3で3位と健闘し、400mメドレー・リレーも片岡、谷、北村、林が4分30秒6のタイムを出して6位となった。得点は17点となり、団体は6位に終った。

  この年に、立教高校を志木に移転、大学施設の1部も志木移転が計画され、後年、水交寮及びプールも志木へ移ることとなる。


昭和36年:

 昭和35年のミュンヘン国際オリンピック委員会で、1964年(昭和39年)のオリンピックの東京開催が決定されると、国内では大会組織委員会が編成され、大会場の整備、道路、宿泊施設など大会準備が大々的に始まった。日本水連も、競技実施の準備と選手強化の2方面に、史上かってない繁忙期を迎えた。日本水連は1月29日の代議員会で役員を改選、会長に高石勝男、東京大会事務総長に田畑政治が就任し、水連の東京大会に対する挙国一致体制が整えられた。4月1日の全国理事会で、東京大会に備える機構が整えられた。新しい機構として、東京大会水泳強化本部が設置された。強化本部は代議員会に直結し、競泳・飛込・水球の強化委員会、地方強化委員会を統括し、スポーツ科学技術委員会を含む機構とした。

  この年の選手強化事業の主なものは、室内選手権に豪州選手を招き、日本選手権に米国選手を招いたこと、全米選手権に高校選手を派遣したことであった。画期的だったのは文部省の意向により、中学生の全国大会開催が可能になり、第1回全国中学選抜水泳大会が開かれたことであった。日本水連は役員改選を行ない、新役員として理事長に根上 博、常務理事に同じく根上(北海道)、競泳委員に山田芳美、外国関連に川田友之、会長指名で太田光雄、田口正治、幹事に渡辺寛二郎が40名の執行役員の中に入って、その任に就いた。また、スポーツ科学技術委員長には、初めに太田光雄が任命された。強化本部役員として、本部員に根上 博(理事長)、田口正治(競泳強化委員長)が就任し、強化コーチには田口正治、平賀 孟(呉)が任命された。

  オリンピック準備委員長には、根上 博(後に奥野良に代わる)、常任委員に川田友之が入り、委員に谷内洋一郎、太田光雄が就任した。日本選手権は、米国から5名、ブラジル、アルゼンチンから各1名を招き、7月28日〜30日神宮プールで開かれた。大会では100m平泳を筆頭に5つの日本新記録が生まれたが、3つの世界新記録は残念ながら米国勢であった。この年の日本学生は、8月14日〜16日神宮プールで行なわれ、才野武士が100m背泳3位(1分07秒4)、200m背泳でも2分26秒1を出して3位入賞の健闘を見せた。100m背泳では片岡輝男も1分08秒3で5位に入っている。100m平泳では寺尾友孝が1分14秒8で6位になり、400mメドレー・リレーは才野、寺尾、神坂、戸崎が3位(4分25秒4)に食い込み、800mリレーも鈴木、戸崎、林、北村が健闘し、5位に入った。得点は、前年と同じく17点を挙げて団体5位へ上がった。


昭和37年:

 冬季に豪州、ニュージーランド遠征、南アフリカ遠征、女子のハワイ遠征の3つがあり、5月の末弘選手権にはアメリカ選手を招いた。7月末、大阪の日本選手権には再びアメリカ選手を招き、さらに8月にはジャカルタで第4回アジア大会が開かれ、これに大挙して参加した。一方、1月に全国の強化委員を200名も集め、コーチ会議を開いたのが画期的であった。

  ここで水泳の力学、これに応ずる筋肉の問題が解明され、選手の間には筋力という言葉が行きわたり、各地のプールには泳ぐだけでなく、補助運動に励む選手の姿が目に付くようになった。豪州遠征は、田口正治監督の下に山中毅ほか9名の選手が、1月4日シドニーを振出しに4都市を転戦し、4レースの合計点数で130点対94点となり、日本の勝ちとなった。一行は、200m背泳、400mメドレー・リレーに世界新記録の土産を持って帰国した。

  日本選手権は、7月25日〜29日大阪プールにおいてアジア大会予選を兼ねて行なわれた。レースでは400m個人メドレーに片岡輝男が、5分27秒2で5位に入った。 日本学生は400m個人メドレーに片岡輝男が5分14秒5で泳ぎ2位に入り、100m背泳も片岡が1分07秒1で6位、200mバタフライで中村康博が5位(2分20秒5)と頑張った。得点は7位となった。


昭和38年:

 東京大会準備の最後の年には、国内で3つの大きな国際競技が開かれた。4月に日豪対抗、8月に第6回日米対抗、10月に東京国際スポーツ大会(プレ・オリンピック)があった。日本水連では日豪対抗に出る日本代表を4月6日・7日都屋内プールで開かれた第5回末弘選手権で選出した。残念だが立教から代表選手を出せなかったが、自由形は別府大会で山中が400mに1勝を挙げただけで、豪州に全部1位を取られてしまった。大会を通じて8つの日本新記録と、800mリレーで1つの世界新記録が生まれ、対抗戦に勝ちはしたものの、水泳日本としては不満の残る結果となってしまった。

  日本選手権は、8月2日から神宮プールで開かれ、男子は日米対抗代表の選考を兼ねていた。400m個人メドレーに出場した片岡輝男は5分11秒9で3位となったが、代表に選ばれることはなかった。日米対抗では、日本チームが5つの日本新記録を出したが、ショランダー始め、アメリカチームの4つの世界新記録の前に敗れ去った。この年の日本学生は、9月6日〜8日神宮プールで開かれ、多田寿之は400m自由形4位(4分32秒1)、800mでも4位(9分31秒0)と大健闘した。また、神坂忠一は100mバタフライに6位(1分02秒0)、200mも6位(2分17秒8)に入った。800mリレーでは多田、杉山、岡本、片岡が8分44秒2のタイムで5位、400mメドレー・リレーも片岡、寺尾、神坂、小泉で5位(4分22秒8)に入り、団体も7位となった。


昭和39年:

 いよいよオリンピックの年である。水連の方針は4月の末弘選手権を境にオリンピック候補選手の数を絞り、その選手達に英才指導を行ない、7月の日本選手権で代表主力選手を決め、9月に選手を追加してオリンピック・チームの編成を終り、最後の仕上げ合宿を行なう予定であった。日本学生は、オリンピックの関係で早まり、6月19日〜21日神宮プールで開催された。

  立教勢では、神坂忠一が100mバタフライに1分02秒0で4位に入る。400mリレーは岡村、神坂、岡本、杉山、が3分59秒2で5位。800mリレーも岡本、高沢、神坂、杉山で6位(8分59秒6)となった。続いて、400mメドレー・リレーは松田、小笹、神坂、杉山が5位(4分28秒7)と頑張った。得点は8点であったが団体6位となり、シード校に復活を果たす。

  日本選手権は、7月16日〜19日神宮プールで開かれたが立教勢の入賞は無く、ついに、日本選手権からセントポールの名を見出すことができなくなった。日本選手権後、代表選手と役員が発表され、立教から田口正治が総監督に選任された。オリンピック東京大会は10月10日、参加国94か国、選手総数5,441名という規模で、神宮外苑国立競技場に開会式を挙げ、開会式には福井 誠選手が旗手として日本チームの先頭を入場行進し、選手達は壮観この上ない祭典に連なった。

  水上競技は、11日を第1日とし8日間の日程で、代々木オリンピック・プールで行なわれた。ヒノキ舞台となった会場の代々木プールには、連日13000余名の観衆がつめかけ、世界水泳史上に残る数々の話題を生んだ。プールのデザインは丹下健三東大教授、構造設計は坪井善東大教授、内部設計は井上宇一早大教授の苦心になったもので、釣り屋根式外観が人目を引き、内部の豪華な感じに外国選手たちは「スイミング・パレス」と呼んだ。技術の粋を尽くした、当時世界最大の規模を誇り得るものであった。競技は国際水連統括のもとに、審判長はFINA役員が勤めたが、その他は国内役員358名が競技運営に当った。

  太田光雄はスタータを勤め、スタート直前のあの張り詰めた静寂の中に「用意」の声が満員の館内一杯に響き渡った。威力を発揮したのは電子式自動審判装置であった。着順のみならず、1000分の1秒まで分解し得る能力を備え、手動タイマー、ビデオも併用されたがこの競技会に関する限り、人力審判は不要の形になり、審判上のトラブルは絶無であった。これはオリンピック史上の1つのエポックであった。競技は「800mリレーに日本3位」、これが最高の成果であり、男女ともアメリカが圧倒的優勢を示して終了した。

  日本は地元開催の東京大会で惨敗した。敗因はアメリカのショランダー18才を筆頭に、15〜18才の選手がこの大会になって記録を伸ばしたことにあった。日本選手の平均年齢は男子21.6才、女子18.3才であったことから、ベテラン選手に続く若い選手の育成が課題となった。日本水連では、オリンピックが終了した10月30日、光輪閣で連盟創立40周年記念会を催したが、来賓の石井日本体育協会長は「水泳は振り出しに戻ったつもりで再建に邁進して欲しい」と、水泳界の奮起を強く要望する挨拶を行なった。記念会では功労者表彰が行なわれ、その中で、本井 巧、野村憲夫、斎藤巍洋、渡辺寛二郎、根上 博、松浦武雄、新井茂雄、田口正治、鵜藤俊平、太田光雄、川田友之が表彰されている。


昭和40年:

 水連では、1月の代議員会で役員改選が行なわれ、新しく選任された奥野良会長は、1:底辺拡充の運動2:指導者の育成3:施設の拡充と既存施設の活用4:メキシコ対策の4つの目標を掲げた。新役員の中に、専門委員長として平賀 孟(学童対策)が選任された。9月になって中学生の学年別競技を始めたが、これが底辺拡大の新しい1歩であった。

  この年の日本学生は、平年9月初旬の日程を繰上げ、日本選手権より早めて行なうこととし、8月5日から3日間神宮プールで行なわれた。100mバタフライに出場した中村康博は1分03秒1で5位、200mにも2分19秒6で4位に入った。400mリレーでは岡村、杉山、石川、岡本が頑張って6位(3分58秒5)になり、400mメドレーリレーも、松田、那智、中村、岡村が4分26秒2で6位に入った。得点は7点であったが団体6位であった。

  日本選手権は、年末のバンコクのアジア大会選手選考を兼ね、8月28日から3日間代々木プールで開かれた。この大会でも、残念なことには立教から活躍する選手を出すことが出来なかった。昭和20年代、縣先生から水泳部長を引き継いだ後藤 眞先生は、当時東長崎のプールの側に居を構えておられ、立教高校生の細間輝喜、豊池 守の両名を自宅に引き受けられて、両君は先生のご家族と同然の高校生活を送っていた。また、後藤先生から部長を引き継がれた野口定男先生もプールの横にお宅があり、プールへもよく顔を見せられ、当時の水交寮に居た水泳部員は両先生ご夫妻の温かいご指導と励ましを頂いていた。

  野口先生から水泳部長を引き継がれた川崎氏淳之助先生もまた、熱心な指導者であったが長い低迷期の中で、そのご苦労も多かったことであろう。当時は、昭和35年に成立した「日米相互協力および安全保障条約」(新安保条約)が調印され、これに反対してストライキや市民のデモが繰り返され、全学連による国会周辺での激しい運動が行なわれ、やがて大学構内での活動に移って激化していき、立教大学においても、40年頃からその例外ではなくなっていった。

  一方、国内経済は1955年〜57年のいわゆる「神武景気」1959年〜60年の「岩戸景気」に見られるように、1950年代の中頃から大型景気が続き、1968年にはアメリカに次ぐ資本主義国第2位の規模を持つに至った。そんな状況の中で、日本は前年のオリンピック東京大会、そして1972年(昭和47年)には第11回冬季オリンピック大会が札幌で開かれ、スポーツの世界でも開催に成功を収めていった。敗戦の混乱から立ち直り、社会全体が活力を取り戻しつつあった時代と言える。


 


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