■立教大学体育会水泳部の歴史-5
●大正10年〜大正15年:誕生期 ●昭和41年〜昭和50年:変遷期
●昭和元年〜昭和9年:黎明期 ●昭和51年〜平成16年:復興期
●昭和10年〜昭和20年:黄金期 ●平成15年〜平成22年:飛躍期
●昭和21年〜昭和40年:戦後復活期

●昭和41年〜昭和50年:変遷期

昭和41年:

 この年、志木の学校敷地内にプールと水交寮が完成する。半年余りを間借り生活で過ごした水泳部員達は5月になって、勇躍新しい合宿所に入った。新しい志木プールは50m、8コースを備え、当然ながら今までの東長崎の設備を超えた立派なプールで、それに水交寮も鉄筋コンクリート造りの二階建てで、旧寮とは比べものにならぬほど立派な建物であった。東長崎のプールと合宿所は、昭和8年に阿部先生、本井等、当時の諸先輩の尽力によって完成し、ベルリン・オリンピック大会(昭和11年)を挟んで、世界に羽ばたいた数々の名選手を育て、戦後も20年間を日本水泳界の第一線で活躍してきた選手達の練習の場所であり、生き生きとした生活の場所でもあった。

  古くはあっても黒光りがするほどに磨かれた水交寮は、ここで選手として学生時代を過ごした人達の匂いと思い出の詰まった場所であり、そして何よりも立教大学水泳部の伝統を育み、それを伝承してきた場所であった。立教大学水泳部の伝統を一言で述べるなら、学生として、また水泳部員としての礼節と規則の厳守・自己規制の上に立つて、自分の限界に挑戦する飽くなき練習の日々を過ごし、誰よりも、どこよりも強くなろうとする精神の継承であったであろう。「ファイトなき者は去れ」これは食堂に掲げられていた言葉である。

  水泳部施設の志木移転は伝統ある歴史を受け継ぎ、新しい歴史を重ねて行くべき門出であった。日本学生は、8月5日〜7日神宮プールで開催された。39年の頑張りで取り戻したシード権であったが、この大会で団体9位となり再びその権利を手放すことになってしまった。チーム力の低下は如何ともし難かった。日本水連は、前年から始めた中学生年齢別競技の考え方を拡げて、小学生から高校生までの年齢別育成10か年計画を発表した。メキシコ、ミュンヘン大会には雌伏しても、10年後には、また世界の第一線に進出してみせるという気構えを示した計画であった。


昭和42年:

 この年の日・立・明3大学対抗戦は例年通りこなしたが、互いの力の差は歴然としてきていた。日本学生は、7月27日〜28日代々木プールで開かれたが、残念ながら3位以内の選手、団体6位までに立教の名を見出すことができなくなった。日本水連の春季代議員会は2月5日に開かれ、水連の財政危機を切り抜けるため新たに財務委員会の設置、県水連の一本化促進を決議し、新理事の選任などを行なった。立教関係では、常務理事として外国担当に川田友之、総務担当に根上 博が就任した。

昭和43年:

 昭和37〜8年頃から、次第にその力を低下させつつあった水泳部は、昭和43年を境に急激に変化していく。その象徴的な出来事が日・立・明3大学対抗水上競技大会の終焉である。3大学対抗戦は昭和9年にそれまでの早慶対抗水上競技大会(昭和2年開始)に対抗して根上等が始め、戦争の激しくなった昭和19、20年の2回こそ、途絶えはしたが、3大学の激しい競り合いの中から幾多のオリンピック選手を出し、名選手を育てて32回を数える歴史と伝統を誇る大会であった。

  第1回大会では根上 博が400m自由形で4分54秒6の好記録で優勝。昭和23年6月13日の神宮プールでの800m自由形では、沸き上がる歓声、興奮の中に古橋選手の9分46秒6。戦後、最初の世界新記録のコールを聞いたのも、この大会であった。敗戦直後の暗い気分を打ち破り、国民に夢と希望を与えた世界新記録といっても過言ではなく、古橋選手の世界新記録ラッシュはこの大会から始まったのである。この伝統ある大会中止の原因は、水泳部員7名、うち選手5名となった立教大学水泳部にあった。新聞は「伝統の一戦」も無意味に「日本水泳の姿」をみる思い、「OBや水連にショック」と書き立てた。OBもがっくりしたが、1番がっかりして、また、辛く悔しい思いをしたのは、当時の現場、現役と監督・コーチ、田野耕清・平賀 孟であったろう。

  それでも選手達は、この夏も再起の思いを胸に合宿に籠り、練習に励んでいた。伝統を誇る立教大学体育会水泳部の衰退は、何に起因するのであろうか。選手が集まらなくなったこと、運動選手の推薦入学制度の運用が厳しくなったこと、学生の気質が変わったこと、見るスポーツから自分でやって楽しむスポーツへと変わってきたこと、挙げれば限りがない。43年の時点では学校の推薦入学制度は、まだ存在していたがその運用は37年頃から厳しくなって、それ以前の半数以下(2〜3名)となってきていた。

  当時、大学は安保闘争による喧騒の最中にあり、学校の方針もまた、端的にいえば「試験ができねば学生の意味なし」といった学力中心の方向に向かいつつあつた。これには当然賛否両論があったが、その流れは立教のみならず他校に於いても同様であった。4月には、各部が新入生の勧誘に軒を並べて声を嗄らす、いつもの大学キャンバスの見慣れた風景である。だが、ここにも異変が起きつつあった。体育会〇〇部より、新入生の注目を引くのは〇〇同好会であった。スポーツをやるのは好きで格好いいが、しかし時間を制約されてその上しごかれるのは嫌だ、極端な言い方かも知れないが、当世学生気質の変化が起こりつつあつたのも事実である。

 昭和40年代に入って、経済の高度成長と合せて、いろんな物にも満ち足り始め、あらゆる価値観が変わり始めた時代であつたのではなかろうか。いずれにしても、スパルタのイメージの強い体育会が敬遠され、見る人に感動を伝えるような真のスポーツの楽しさ、自己実現と達成感、それを得るための自制と鍛練から目を背けるようになってしまったといえる。こんな時代の流れにあっても、水泳部員や指導者は何とかしなければの思いで努力を続けていたであろう。43年はオリンピック・メキシコ大会の年に当たり、水泳連盟は7月末の日本学生、8月中旬の高校選手権、8月末の日本選手権の成績で代表選手を選考することにした。代表は競泳男女18名、監督には古橋廣之進が選ばれた。大会ではついに全くメダルから見放され、オリンピックでは、1924年以前にまで後退する形になってしまった。


昭和44年:

 この年の水泳部員は、中途退部者を除いて7名(内女子1名)であった。当時の水交寮には部員も2名になったという。もはや体育会水泳部とは名ばかりといわれても仕方がない。水交寮はガラ空き、余所の部から合宿練習のために、部屋を貸してくれとの申し込みを受けるまでになってしまった。悲惨この上なしの状態である。当時の部員には申し訳ないが、栄光輝く伝統も何もあったものではない。しかし、彼等は懸命に練習し、懸命に水泳部の形態維持を考えていた。

昭和45年〜50年:

 昭和45年になって、体育会各部に激震が走るような出来事が起きた。ついに学校は、推薦選抜制度を廃止する決定をした。水泳部はもとより、野球部、バスケット部、その他の部も部員の減少を来して低迷していく。この年、立教高校から、先輩細間、豊池、須藤に続いて11年振りに須田恭彦が入部する。当時の部員は仲間を増やすことが先決との思いから行動を始める。須田は中学、高校と水泳部に籍を置いて活躍していたことから、46年になって安部喜方、岸塚正夫を勧誘する。

  これが1つのきっかけとなって、47年には4名、49年には2名、50年には5名と立教高校からの入部が続き、50年には部員15名となり、水泳部の形は維持されていった。この様に見ていくと、付属高校があったことからどうやら部としての形態は維持されたが、当時の監督、平賀 孟がOB会総会の挨拶の中で「水泳部の選手として、どうやら練習らしい、練習が出来るようになった」と述べたことが、当時の様子をよく物語っている。

  いずれにしても、立教高校出身の諸君が、学校から水泳部を廃止するとも言われ兼ねない状況を、改善する責を果たしたことには間違いない。立教大学水泳部のランクは42年〜44年1部、45年2部、46年3部、47年〜48年2部、49年1部、50年2部と目まぐるしく変わっていった。この間、昭和47年8月26日〜9月11日に開催された第20回オリンピック・ミュンヘン大会では太田光雄が日本チームの監督を勤めた。 また、昭和47年には水泳部創立50周年祝賀会を志木プールで開催した。当日は大勢のOB会員が集まって泳いだり、歓談したりと大変賑やかであった。


 


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