■立教大学体育会水泳部の歴史-6
●大正10年〜大正15年:誕生期 ●昭和41年〜昭和50年:変遷期
●昭和元年〜昭和9年:黎明期 ●昭和51年〜平成15年:復興期
●昭和10年〜昭和20年:黄金期 ●平成15年〜平成22年:飛躍期
●昭和21年〜昭和40年:戦後復活期

●昭和51年から平成15年:復興期

昭和51年〜60年:

 何とか形を整えて来た、立教大学水泳部は、昭和50年に関東学生2部で優勝し、昭和51年〜54年の間は関東学生1部を守って来たが、55年には2部へ落ちる。この頃には平賀監督の下に水泳部はまとまりを見せ、OB会も森平勇雄、樋口幸利、山口安司等の尽力で、OB会名簿の作成、立教大学水泳部の歴史ともいうべき、部誕生からの歩みを調べて記録する(50年史)など活発な行動を起こし、現役への協力体制を進めて行った。特に、全国のOB会員の名簿の作成には、大変な労力と時間を要したであろうことを考えると、高く評価されるべきであろう。

  山口は良くプールへも顔を出し、自分の選手時代の恩返しとばかりに真に水泳部の復活を願って現役を励まし続けた。一方、56年からグァム島春季合宿が始まる。広く全国から選手を集める、部員のやる気を引き出すなどの目的を持っていた。当時40年半ば頃から、一般企業においても海外研修が流行しつつあったが、運動部としては時代を先取りしていたかもしれない。

  OB会は55年に田野会長から田口会長へ引き継がれ、尚、一層の活動活発化を目指していく体制を整えた。 関東学生では55年は2部3位を守ったが、56年には2部で9位となり57年・58年は3部へ陥落する。58年の大会では頑張って2位となり、次年度の2部昇格を果たす。59年・60年度は2部を維持する。

昭和61年〜平成15年:

 61年の関東学生では、2部で優勝する。10年振りの2部優勝に部員も沸いたが、立教大学新聞もニュースとして大きく取り上げた。2部で優勝し、1部への昇格を期してOB会では「シード校復活基金」の募金を集めてトレーニング・ルームの建設を計画した。選手達は完成したトレーニング・ルームで体づくりに励み、シード校昇格も間近かとの期待を持たせる雰囲気で、水泳部員も18名を数え、いよいよ復興の機来るかとの期待を抱かせたが、1部の壁は厚く、62年には1部で8位に終って、またもや2部へ降りてしまった。

  この時期には関東学生水上のレベルは相当上がって来ていて、1部校と2部校との間にはその実力にかなりの開きがあった。1部の実力をまざまざと見せつけられた思いがする。62年前後は、平賀監督は夏場には水交寮に泊まり込んでいてその指導を受けた、と当時の部員は語っている。2部になった立教大学水泳部は63年から平成6年まで、そのまま、それも5位〜8位の位置で低迷する。その間、平成3年(1991)4月3日〜5日日本サイクルスポーツセンターで開かれた日本室内選手権に、梶谷典久が50m自由形に出場し、23秒76のタイムで3位に入賞した。久方振りに、全日本の競技で立教大学の名が登場して、水泳部の将来に微かといえども希望を与えてくれた。梶谷は6月6日〜9日神戸市ポートアイランド・スポーツセンターで行なわれた日本選手権に出場し、50m自由形、24秒51で8位に終った。

  この年平成3年、立教大学水泳部の創立者野村憲夫氏が逝去され、水泳部は令夫人から多額の寄付を受けたので、関係者間で相談の結果、水交寮の玄関前に別棟を建設をすることとした。そしてこの別棟を野村寮と名付けて後世に残すことにし、完成後は学校へ寄贈された。平成4年11月に水泳部創立70周年記念式典を池袋プリンスホテルで開催した。当日は多くの招待客、また、全国各地からOB会員が出席して用意した部屋も入り切れないほどの盛会となった。また、当日はパーティーに先立って、立教学院小・中・高・大の選手に混じってOBも参加して、スイミング・フェスティパルを開催した。

  平成9年から、OB会はそれまでコーチを勤めていた安部喜方(昭和50年卒)に監督を、望月邦彦(昭和51年卒)にコーチを委ねた。平成6年の実績で、7年から10年まで関東学生3部校を余儀なくされたが、10年には3部で優勝し11年から2部へ活躍の場を移した。この間平成10年にOB会では現役支援基金を募集しこれを水泳部へ寄贈した。

平成12年は、前年からの補強も進み始め、2部に4位で残り、学生選手権へは標準記録を突破して6名(堀口、堺、斉藤、池田、宮城、関)が出場権を得た。これは近年になかったことである。

  学校では平成8年に、それまでの入学制度の方針を変え、自由選抜制度による入学を復活した。偏差値の基準はかなり厳しいが、優秀な高校選手の入学が期待できるようになったことは水泳部は勿論、体育会各部にとっても何よりの朗報であった。しかし、現実は学力的にも一定基準のレベルを持った優秀な高校選手を探すとなると、まさに至難のわざであろうが大きな前進に違いない。

また、こういった選手が選ぶ水泳部とはどんな所だろうか。単純に考えるなら、水泳の名門といわれる所、そして現在も強くて自分を伸ばしてくれる環境の整った所と答えるのではなかろうか。強い所に人は集まる。

体育会運動部は、その部門のスペシャリストであって強くなければならない、チームに強くなろうという確固たる意志がなければならない。「地域貢献」と言う美辞麗句に酔っていてはならない。体育会水泳部とはどうあるべきか、名門立教大学水泳部の伝統とは何であったか、それぞれで自問してみることが、新たな歴史を築き上げる答えを出してくれるのではなかろうか。
  大正10年の水泳部誕生から今日まで、その時代時代に活躍した選手の偉業を追いかけながら、立教大学水泳部の移り変わりを見て来たが、先人たちの水泳に対する情熱と向上心、水泳部に対する思い入れには感嘆するばかりである。ひたむきな姿はいつでも見る人を魅了せずにはおかない。本稿に登場した人達は、その持てる資質と努力によって、第一線で華々しい活躍を為したことには論をまたないが、その活躍には立教大学水泳部員として、他の多くの仲間がおり、その仲間とともに練習に切磋琢磨し、その仲間から有形無形の励ましを受けたことも大きな要因の一つといっても、否定する人はないであろう。

  昭和10年代には、伝説的な氷を割っての練習、20年〜30年代には部内の競争も激しく、夜中にプールへ入ると、そこには、既に幾人かの仲間がいて秘密練習にならなかったなど、逸話は限りない。価値観の多様化した現在に、そういうことを望むつもりは全くないが、水泳選手としての鍛練と節制(自制)、弛まぬ向上心、より適切な選手生活を送るための環境整備は、いつの時代にあっても不変であろう。

  歴史と伝統を誇る立教大学水泳部は、学校のご理解と相俟って、水泳部並びにOB会が一体となって適切な選手の活動環境を整備していけるなら、90周年、100周年を待たずして、自らの手で栄光を取り戻すことであろう。


 


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