2006年度 立教大学社会学部 専門演習(3年) 是永ゼミ 報告書
コミュニケーション:「若者」と「テクノロジー」をめぐって
実例による検証
1.振り込め詐欺に見る説得の技術
2.携帯メールとパソコンメールの違いについて
:それぞれの特徴やアカウンタビリティの有無を調査する
3.若者のコミュニケーション能力は低下しているのか
4.若者の人間関係について
はじめに
本報告書は、2006年度に是永が担当した専門演習のグループ実習報告書である。
今年度のゼミは、浅野智彦編著『検証・若者の変貌』(勁草書房)および山崎敬一編著『モバイル・コミュニケーション』(大修館書店)をテキストとして、報告者がそれぞれ各章の内容の紹介を行なう形で進められた。ゼミ後半の実習では、本書のテーマを引き継ぎながら、各グループでそれぞれのテキストに関するテーマについて話し合い、適切と思われる題材を選んでその内容について調査を行なった。
結果として、題材はそれぞれのテキストにしたがって若者論と会話分析という、二つの方向に分かれたが、ここでは指導教員としてのコメントをかねて、両者の橋渡しとなる視点を提示したい。それは、若者論のレポートでもあきらかなように、現代においては、「コミュニケーション能力」という形式で、コミュニケーションそのものが一つの身に着けるべき対象として理解されているという点にはじまる。それだからこそ、特定の人々(若者)に対して、「コミュニケーション能力の欠如」といったものいいが可能になるし、実際こうした言い方自体は決して新しいものではない。
しかし、現代においては、こうした理解がより展開し、たとえば厚生労働省は「就職基礎能力」の一つとして、「意志疎通ができ、協調性があり、自己表現ができる」という「コミュニケーション能力」を規定しており、それを試験などで「認定」するということを実際に行なっている。また、経済産業省は「社会人基礎力」として、「発信力」や「傾聴力」あるいは「働きかけ力」といったものを規定している(2007年4月10付け朝日新聞朝刊より)が、これもコミュニケーション能力を規定し、さらにそれらをユニット化したものと見ることができるであろう。
このような理解に対してまず向けられる疑問は、コミュニケーションというものが、果たしてこのような技術としてユニット化された「能力」になり得るものなのか、という点であろう。同記事で奇しくもテキストの編者である浅野氏が、このようなものは「基準から落ちた若者の挫折感を深くするばかり」ではないかと危惧しているように、コミュニケーションというものが、通常はきわめて自然に行なわれる社会的な行動と考えられている中で、いったんこのような基準を決めてしまえば、それに外れたものは、ある意味「コミュニケーションさえもできない」ものになってしまうのである。つまり、個々人の身体の中にそれぞれ「能力」としてコミュニケーションがあるといったん考えられれば、それが欠如しているということは、何らかの身体的能力の欠如ということになり、人によってはかなり深刻な事態となりうる。
しかしながら、ここで考えるべきなのは、コミュニケーションとは技術などという「表面的なもの」ではなく、もっと深遠なものなんだ、といった理想論を振りかざすことではない。むしろ、今回のレポート(そしてその背景にある会話分析)が明らかにしているように、たとえば会話というコミュニケーション一つをとっても、そのものがさまざまな「テクノロジー」から成立していることは、ひとたび詳細なトランスクリプトをとれば明らかになる。問題なのは、あくまでそれを「能力」という、個々の身体に分離した単体として、単純にいえば「傾聴する」ものがいるから「発信できる」といった、複合的なプロセスとして見る視点が全く欠如しているという点であろう。たとえば、逆にいくら「発信力」があろうとも、「傾聴力」が全くもって見られない人を、われわれは日常の場面で、「能力のある人」と認めることができるであろうか?一方で、特定のコミュニケーション場面について必要となるのは、単刀直入になんでも正直に「発信」を行なうことではなく、隠すべきときには隠し、相手を慮って「発信しない」ということでもあるだろう。
したがって、必要となるのはまず、コミュニケーションをプロセスととらえ、そのプロセスの中でそれぞれにおいて相互に駆使される技術をまず見据えることであろう。相互的である以上、それはさまざまな場面のさまざまな必要にしたがって異なるものであり、そもそも単体の「能力」に帰することも難しい。
ただ一方で、それでもなお、われわれが日常的に「話し上手」と「話し下手」を見分けるように、そうした理解は厳然として存在するのであり、それをあくまで技術として詳細に分解・吟味することによって、その結果が「話し上手」であることに寄与すると期待される場面は少なくはないだろう。われわれは「名司会者」や「聞き上手」などがいることを、すぐに職人芸といった高尚な能力に帰そうとするが、そこをたちどまり、実際に行なわれているコミュニケーションの詳細に向かいながら、話のテクノロジーがいかに「話芸」に結びつくのかを、地道にそして丹念に思考するほかにはないのである。
ここで少なくともいえるのは、そのような「能力」を規定・認定している人々の組織(役所)こそが、社会的に最も「傾聴力」や「発信力」が欠けているように周囲から理解されているという事実であり、そのような事実の根拠は、いくら個々の構成員の「能力」を基準にしたところで見つかることはないであろう。そのようなものを含めて、数々の実体のない「能力」の評価に追いたてられながら、ただでさえ社会的に不利な条件に立たされている若者たちが、卒業論文等を断念する覚悟で「就職活動」に勤しまなければならないでいる姿を見るにつけ、憐憫の情を禁じえない。
少々話が広がり過ぎたが、以上のような視点とともに、ゼミ生を含む読者にあらためて個々の研究結果を丹念に見てもらうことができれば、ひとまず序の役割は果たせることになるだろう。
最後に、公式・非公式に関わらず、TAとしてひたすら献身的に今年度のゼミ運営をサポートしてくれた別所智樹さんに、深い感謝の念はもちろんのこと、いつでも詳細なレジュメを用意される一方で、お名前のように小気味よいユーモアを忘れない機智に敬意をこめて。
以上 |
担当指導 社会学部助教授 是永論 |
※本報告書は、特に印刷文書としては発行しておりません。